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1921年、レヴィンはベルリン大学の講師に任命されます。彼は人の気持ちを上手に動かす講義をする教師でした。高い評価をされるようになり、何年間かにわたって心理学科の学生を指導しています。
レヴィンは、外向的な性格の持ち主でした。とても明るく話し好きで、人をひきつける人間性をもっていました。学生に対しては、上から命令ばかりするような威厳的なリーダーシップ・スタイルではありませんでした。学生たちの考えを上手に引き出し、彼ら彼女らのアイディアを広げ、学生が主役になるように導く、今でいう「サーバント・リーダーシップ」を発揮していました。
そんなレヴィンの指導のもと、学生たちは優れた論文を書くようなります。
特に有名なのは「ツァイガルニク効果」です。
レヴィンの指導学生だったブルマ・ツァイガルニクが確立した理論ですね。「ツァイガルニク効果」とは、成し遂げていない未完の課題のほうが、やり終えた課題よりも記憶に残りやすいというものです。
実験は1924年から1926年にかけて行われました。「ツァイガルニク効果」は、心理学の歴史に残る概念です。
1927年、レヴィンはベルリン大学で「員外教授」に任命されます。「員外教授」とは聞き慣れない言葉です。実は、この言葉にユダヤ人への差別があります。ユダヤ人が昇進できる最高のポジションが「員外教授」だったのです。
大学内でのポジションは残念な事実ですが、「トポロジー心理学」だけでなく学生たちの仕事も充実していくことで、レヴィンの名声は高まっていきました。
アメリカの心理学誌に紹介され、1929年、米国イエールで行われる国際心理学会の集会に招かれ講演をしています。この時、映画を上映しながら「トポロジー心理学」について解説しました。自分の子どもが大きな石に座る様子を収めた映像です。
レヴィンの講演を聴いた著名な心理学者ゴードン・オールポートは、次のように高く評価しました。
「この巧みな映画はいく人かのアメリカの心理学者たちに対して、知的行動や学習の性質についての彼らの理論を修正させる決定的な力をもっていた」
『クルト・レヴィン』(A.J.マロー 誠信書房)p83
1930年代、レヴィンの研究は充実していくものの、ユダヤ人にとってドイツ国内は、不穏な空気に包まれようになっていきます。
ナチスの台頭です。「ドイツよ目を覚ませ!ユダヤ人は出ていけ」と声をはりあげる集会が開かれ、人々が行進するようになったのです。レヴィンはユダヤ人です。1930年、大学で暴動が起き、ユダヤ人の学生が殺されています。
その頃、スタンフォード大学から客員教授(6ヶ月間)の話しがきます。ドイツにいては危険です。そこで1932年5月、レヴィンはアメリカに渡ります。
この客員教授の期間が終わり、ドイツに戻る帰路で、日本に立ち寄っています。ベルリン大学では、レヴィンの研究室に日本人が留学していました。その時の学生だった佐久間氏に会ったのです。佐久間氏は、九州大学の教授になっていました。
日本での滞在を終えた後、シベリアを横断してモスクワ経由でドイツに帰国する予定でした。モスクワで、ヒトラーが首相になったことを知ります。レヴィンはドイツで暮らすことを断念。米国の知人に仕事を紹介してもらうように頼みまました。
そしてラッキーなことに「コーネル大学」から、教授団に加えるという報を受け取ります。そうして1933年の秋、ナチスの迫害から逃れるようにレヴィンは家族で米国で暮らすようになるのです。
歴史に「もし」はありませんが、米国に行くことがなければ、レヴィンはナチスの強制収容所に入れられ、殺されていたかもしれません。レヴィンの母親は悲しいかな、そうした末路をたどりました。
「コーネル大学」で児童に関する研究はするものの、この時期(1934年〜1935年)のレヴィンは、「ユダヤ人の救済」に意識が向いていました。ドイツではユダヤ人迫害の風潮が強まるばかりです。そこで、アメリカの財団に援助を求め、国際的な研究計画を提案するのに奔走していたのです。その計画は、ユダヤ人がナチスの迫害から逃れた後の生活苦を緩和するためのものでした。
残念ながら、その計画が実現されることはありませんでした。ただ、この研究計画は、社会にある問題を分析し、その問題を現実的に解決していこうとする手法ですので、レヴィンの代名詞といえる「アクション・リサーチ」(実践研究)の原点となりました。
そして、コーネル大学の任期(2年間)が終わろうとしている時、「ユダヤ人救済」の仕事で知り合った財団の人脈によって、「アイオワ大学」へ行くことが決まります。
レヴィンの研究生活にとって黄金期と言える「アイオワ研究時代」の始まりです。