『兎の眼』『天の瞳』『太陽の子』など、数々の名作を世に残した作家といえば…灰谷健次郎さんですね。
灰谷さんは1934年、神戸で生をうけます。現在の大阪教育大学を卒業後、小学校教師になりました。1962年、小説『笑いの影』をした後、人生の光と影を味わい、1971年に教師の仕事を辞めます。
その後、放浪生活を送り、1974年に『兎の眼』を発表。すると『兎の眼』はベストセラーとなりました。『兎の眼』と『太陽の子』は映画化されています。数々の優れた児童文学を残し、2006年に亡くなっています。享年72歳でした。
名作『兎の眼』に、こんな言葉があります。
「人間は抵抗、つまりレジスタンスが大切ですよ、みなさん。
人間が美しくあるために抵抗の精神をわすれてはなりません。」
『兎の眼』(著 灰谷健次郎 角川書店)より
『兎の眼』の主人公は、新米の女性教師小谷先生です。小谷先生は、学校のこと、生徒とのこと、家庭のことで疲れはて、学生時代から好きだった奈良の西大寺を訪れます。
西大寺には「善財童子」という彫像があります。彫像の美しい眼をしばらく見つめた後、小谷先生はふっとある言葉を思い出します。
高校時代、生徒から馬鹿にされ、まともに授業のできなかったある教師が、授業中に、突然、つぶやいた言葉です。
「人間が美しくあるために抵抗を」
小谷先生は、この言葉と自分が抱えている問題を結びつけ、西大寺の本堂の廊下で青ざめ立ち上がるのです。
『兎の眼』に登場する、ある人物に、こんなセリフがあります。
「わたしらがストライキをやったら、たちまちこまってしまいます。わたしはみんなにいいましたわい。
そんなだれでもやるようなことはやるな、たちまち人がこまるようなことをとくとくとしてやるな。
どんなに苦しくてもこの仕事をやりぬけ。それが抵抗というものじゃ』
『兎の眼』(著 灰谷健次郎 角川書店)より
何か嫌なことをされると、人はその仕返しにと相手が困り果てることをしようとします。やられたらやり返さないと気がすみません。「倍返し」なんて言葉も流行しました。
「仕返し」の結果、相手が困り、傷ついた表情を見せれば、人は喜びを感じ満足をします。人間は「仕返し」をすることで「快感」を感じる生き物です。「やられたらやり返す」ことは、間違っていないと思っています。
でも、灰谷さんは登場人物に、「そんなだれでもやるようなことはやるな、たちまち人がこまるようなことをとくとくとしてやるな。」と言わせています。
だれでもやるようなことが、仕返しであり、ここでは「ストライキ」です。「ストライキ」は、労働者が給与の増額や雇用条件の改善を求め「仕事をしない」ことで、体制側(経営者側)に抵抗することです。
学校の先生が「仕事をしない」とは、「授業をしない」ことですね。先生たちに抵抗をされて、学校側はとても困ります。でも、授業を受けられない生徒たちは、もっと困ります。教育を受けられない子どもたちは、不幸です。
「どんなに苦しくてもこの仕事をやりぬけ。それが抵抗というものじゃ」
灰谷さんは、「仕事をしない」ことではなく、「仕事をやりぬく」ことが、「抵抗」になるのだといいます。
これはある意味、「自己への抵抗」です。
「仕返し」をして相手を困らせ、溜飲をさげるのは、とても気持ちのよいことです。でも、仕返しの結果、相手が困ったり悲しんだり傷ついたりするのであれば、その行為は世界に不幸を生み出す醜い行いです。人の道に外れた行為といえます。
「仕返し」をして満足するのは、憎しみや怒りに、そのまま「流された行為」です。でも、人はネガティブな感情の流れに抵抗できます。怒りや憎しみに抵抗できたら、それこそが「人の道」にそった「美しい行い」です。
だから「それが抵抗というものじゃ」といえるわけで、怒りや憎しみに流されず抵抗する心が「人間が美しくあるための抵抗の精神」なのですね。
灰谷さんの著『すべての怒りは水のごとく』(倫書房)に、こんなことが書かれてあります。
「わたしはかつて、子どもたちの美しい眼が美しいのではなく、美しい眼をもつための子どもたちのレジスタンスが美しいのだと書いたことがあります。
この考えは、今も少しも変わりがありません。子どもたちのやさしさが、根源的に生命の平等感から出ているということは、はじめに述べましたが、それが成立する過程に、子どもたちのいくさがあります。
彼らはそのいくさを通して強靭にもなり、人間としてのしなやかさを身につけていくのです。」
『すべての怒りは水のごとく』(著 灰谷健次郎 倫書房)より
赤ちゃんが「汚れのない心」であることは、すぐに理解できます。まさに「汚れなき眼」であり「美しい眼」をもっています。ですが、人は成長していくつれて、自分の「欲」を満たそうとして「美しい眼」を、くすませていきます。
大人になると、憎しみも嫉妬もさんざん経験し、嘘をついたり人の悪口をいったり、数々の善行とはほど遠いエゴイスティックな行いをして、中原中也(詩人)ではありませんが、「汚れちまった」と感じることがあります。
でも、どれだけ「汚れちまった自分」であっても、これ以上汚れないようにと「抵抗」するのが人間です。なぜ、「抵抗」するのかといえば、人間には我欲に抵抗できる意志(WILL)があるからであり、心の核に「真善美」を求める「真我」が存在しているからです。
どんな人の未来も、今ここから変えられる。
美しくあろうとする「抵抗」が美しい。
それは子どもだけでなく、大人であっても同じことなのです。
(文:松山 淳)