「積小為大」とは、江戸時代の農政家・思想家「二宮尊徳」の言葉。読み方は「せきしょういだい」。「積小為大」の意味は「小さい事が積み重なって大きな事になる。だから、大きな事を成し遂げよう思うなら、小さい事をおろそかにしてはいけない」。尊徳の伝記『報徳記』の原文は「小を積めば、則ち大と為る」。「積小為大」の意味から、歴史を変えた事件までを考える。
『報徳記』は二宮尊徳の教えを後世に伝えようと門人「富田高慶」が著しました。江戸時代の安政三年(1856年)の成立とされています。尊徳の思想書は他に、門人「福住正兄」が書いた『二宮翁夜話』と相馬藩士の斎藤高之が記した『二宮先生語録』があります。
『報徳記』『二宮翁夜話』『二宮先生語録』の3つを「高弟の名著三部作」と呼びます。私たちの知る二宮尊徳の教えは、これらのいずれかから引き出されたものです。
本稿では、「積小為大」の原文は『報徳記』(302)から引用します。出典は『二宮先生語録 読み下し全ルビ原文・現代語訳』(二宮尊徳の会)です。オレンジ色の現代文は私が「意訳」していますので、ご参考までに…。
大事を成さんと欲する者、宜しく先ず小事を務むべきなり。
(だいじをなさんとほっするもの、よろしくまずしょうじをつとむべきなり)
大きな事を成し遂げたいと思う人は、まず小さな事をしっかりとやるべきだ。
大事を成さんと欲して、小事を怠り、其の成り難きを憂いて、
(だいじをなさんとほっして、しょうじをおこたり、そのなりがたきをうれいて、)
大きな事で成し遂げたい思っていて、小さなことをさぼり、なかなか成功できないと憂いて、
成り易きを務めざる者、小人の常なり。
(なりやすきをつとめざるもの、しょうじん の つねなり)
できることをやらない人が、思慮の浅い人間のパターンである。
夫れ小を積めば、則ち大と為る。
(それしょうをつめば、すなわち だいとなる)
小さい事を積み重ねていけば、大きな事になる。
万石の粟は、則ち一粒の積。
(まんごくのあわは、すなわち いちりゅう のせき)
万石の米は、一粒の米が集まったものだ。
万町の田は、則ち一耒の積。
(まんちょうのたは、すなわち いちらい のせき)
万町の田が実るのも、ひと鋤(すき)ひと鋤の結果だ。
万理の路は、則ち一歩の積。
(ばんりのみちは、すなわち いっぽ のせき)
万里の道を歩き通す旅は、一歩一歩、歩んでいって達成できる。
九仞の山は、則ち一簣の積なり。
(きゅうじんのやまは、すなわち いっき のせきなり)
とても高い山は、「もっこ」一杯分ほどのわずか量からできあがっている。
故に小事を務めて怠らざれば、則ち大事必ず成る。
(ゆえに しょうじをつとめて おこたらざれば、すなわち だいじ かならずなる)
だから 小さい事をさぼらずコツコツ続ければ、必ず大きな事を成し遂げられる。
小事を務めずして怠る者、庸んぞ大事を成すを得ん。
(ゆえにしょうじをつとめずしておこたるもの、なんぞだいじをなすをえん)
小さい事をさぼって続けないひとが、どうして大きな事をなしげ遂げられるのだ。
「万石」:一石はお米150kg 万石はお米15,000トン
「万町」:一町は1ヘクタール(100m×100m)
「万里」:一理は3.93Km 約4km
「九仞」:高さがとても高いこと 仞は高さの単位
「一耒」:耒は、田を耕す農具「鋤」(すき)のこと
「一簣」:わずかな量のこと 簣は、土砂などを運ぶ運搬道具「もっこ」
※原文出典:『二宮先生語録 読み下し全ルビ原文・現代語訳』(二宮尊徳の会)p235
「積小為大」の言葉で、いつも思い出すのはイチロー選手の名言です。2019年4月30日、惜しまれながら引退しましたが、この名言はイチロー選手が残した記録と同じく歴史に刻まれるでしょう。
とんでもないところに行くただひとつの道
出典:『イチロー 262のメッセージ』(ぴあ)
この名言は、2004年10月、「大リーグシーズン最多安打記録」(258本目)を達成した時のインタビューで生まれました。
ひとつひとつのヒットが積み重なって記録となります。「ひとつのヒットなくして記録なし」ですね。二宮尊徳の言葉「夫れ小を積めば、則ち大と為る。」はイチロー選手の名言と同じことを意味しています。
そういえば老荘思想の老子に「千里の道も一歩から」があります。二宮尊徳は「老子」も学んでいましたので、「積小為大」の着想は「千里の道も一歩から」にあるのかもしれません。
「小事は大事」とも言います。
「小さい事が大きな事になる」。この法則は数々の歴史が証明してくれています。
ひとりの女性が、歴史を変えた。
1955年12月1日、アメリカのある街で黒人女性が小さな事件を起こしました。女性の名はローザー・パークス。
米国、アラバマ州モンゴメリーの街で、パークスはバスに乗車。当時、「白人」と「黒人」の席は分かれていました。パークスは「白人専用及び優先座席」に座ります。
すると白人の運転手が、席を譲るようパークスに忠告します。しかしパークスは席を立ちませんでした。その結果、警察官に逮捕され投獄されてしまうのです。「モンゴメリー・バス・ボイコット事件」です。
この事件を聞き、「公民権運動」(反人種差別運動)を率いるマーティン・ルーサー・キング牧師が動きました。彼はバスへの乗車をボイコットするようにモンゴメリー市民に呼びかけたのです。この運動は全米へと波及してきました。
翌年の1956年、合衆国最高裁判所は「白人専用及び優先座席」を違憲とする判決をくだします。「公民権運動」はこの判決を機に、国を巻き込む大きな運動へと発展していきます。
そして、「I Have dream」から始まるあの「伝説の演説」が生まれるのです。
1960年のジョン・F・ケネディ大統領は、公民権運動に理解を示しました。ところが凶弾に倒れてしまいます。ケネディ政権を引き継いだジョンソン大統領も人種差別に否定的な態度をとり、世論にも背中を押され1964年人種差別を禁止する「公民権法」が成立します。
同年、キング牧師はノーベル平和賞を受賞。
ひとりの名もなき女性の勇気ある行動が、世界を変えたのです。
2019年ラグビーW杯の優勝国は「南アフリカ」でした。ニュージランド代表「オールブラックス」にに匹敵する強豪国として世界のラグビー界を牽引してきました。南アフリカはラグビーを国技としています。
ラグビーW杯の歴史はとても浅く、第1回の開催が1987年。
それから4年ごとに大会は開催され、2019年日本開催が、第9回目にあたります。ちなみにFIFAサッカーW杯の第1回開催は、1930年(昭和5年)。オリンピックの起源は紀元前まで遡ります。
「オリンピック」「サッカーW杯」「ラグビーW杯」の3つが、現在の「世界三大スポーツイベント」と言われます。1987年から始まったことを考えると「ラグビーW杯」の歴史が、いかに浅いかを理解できます。
歴史は浅いのですが、「南アフリカ」は、ラグビーW杯の第1回(1987)、第2回(1991)大会を欠場しています。なぜでしょうか。理由は人種隔離政策「アパルトヘイト」です。黒人差別の政策を1980年代にも続けていて、国際社会から制裁を受けていたのです。
この「アパルトヘイト」が消滅する大きなきっかけとなったのは、「ひとりの少年の死」が関係しています。
サッカーファンならご存知の通り、2010年サッカーW杯は「南アフリカ」で開催されました。その決勝会場となった「サッカーシティ」は、アパルトヘイト時代の黒人居住区からそう遠くない場所にあります。
1976年、その黒人居住区「ソウェト」で13歳の黒人少年が警官の無差別発砲によって命を落とします。
少年の名はヘクター・ピーターソン。
黒人学生よる抗議行動が起き(ソウェト蜂起)、鎮圧に乗り出した警官隊の発砲に巻き込まれました。銃弾に倒れ少年に運ばれるピーターソンの衝撃的な写真が撮影され、世界中をかけめぐりました。
「1枚の写真」は西洋諸国に大きなショックを与えます。アパルトヘイト政策への国際的非難が巻き起こります。国際連合(国連)が動き、南アフリカは世界から制裁を受けることになります。
1987年には、名監督リチャード・アッテンボローが「ソウェト蜂起」を扱った『遠い夜明け』(主演:デンゼル・ワシントン、ケヴィン・クライン)を製作・公開し、世界に衝撃を与えます。
1990年、ネルソン・マンデラが釈放。91年アパルトヘイト政策の廃止が宣言され、1994年、完全撤廃が実現されます。
1995年には、ラグビーW杯が南アフリカで開催されました。代表チームである「スプリングボクス」は、ニュージランド代表「オールブラックス」を破って優勝します。
この出来事も映画になりました。クリント・イーストウッド監督の『インビクタス/負けざる者たち』(ワーナー・ブラザーズ)です。
黒人のネルソン・マンデラ大統領が、白人のピーナール主将に優勝トロフィーの「ウィリアム・ウェブ・エリス・カップ」を手渡しました。人種差別という愚かな歴史を繰り返さない強い決意が、国技ラグビーを通して、世界に向けて発信されたのです。
2002年、ヘクター・ピーターソン博物館が南アフリカに建立。
2019年ラグビーW杯の南アフリカ代表チームの主将はシヤ・コリシ。
初の黒人主将でした。
名もなき女性の勇気ある行動。1枚の写真
小さなことから何かが始まる。
積小為大。
小さなことを大切にしたい。
小さなことでも、あきらめずに続けたい。
(文:松山 淳)