会社から独立して、しばらくの間、「新聞の切り抜き」をファイリングしていました。閉じたファイルをめくるとその時々で、「自分がどんなことに興味を持っていたのか?」、そのことがすぐに理解できて、5年以上も続けていました。
ある日、山積みになっている本の影に、1枚の記事が落ちているのを発見しました。夏真っ盛り、8/5でした。記事を読んで、なるほどと、首を縦にふりました。
職場の仲間の何げない一言に、自分をつくるきっかけを与えてくれるものがあったりする。私の場合、40年ほど前、正月早々、病院で当直しているとき、入院したいという患者のお尻に注射をしようとしたら、ウンチをされてしまった。
「医者なんていやになっちゃった」
と愚痴をこぼしたら、18歳だった看護師に言われた。
「先生、『うん』よ。元旦から運が向いてきたんだから、いいことあると思いなさい」って。
若い女の子なのに言ってくれるよなあと感心したんだけど、これが今でも忘れられない。それでガラッと気分が変わっちゃった。
(2005年8月5日付け朝刊 朝日新聞より)
この先生は精神科医の「なだ いなだ」氏です。新聞掲載当時、76歳でした。アルコール依存症の治療に取り組まれている先生としても有名です。
この記事は、対談です。相手は、ドキュメンタリー映画作家の河瀬直美さんです。カンヌ国際映画祭の新人監督賞を97年に受賞している人です。
なだ先生の言葉は、河瀬さんの「自分がダメだと思っているとき、認めてくれる大人の人って大事ですよね。」といった言葉への回答して述べられたものです。
この記事を読んで、ふと思い出したことがあります。それは、私がサラリーマン時代、新人の頃、上司の一言です。
確か入社して、間もない頃だった思います。右も左もわからず、ミスを連発して、よく怒鳴られていました。すぐ目の前の席に座っているのに、大きな声で「ま〜つやま〜」と呼ぶものですから、「またミスしたかな?」と、もう、心臓がドキドキしたものでした。
そうして、毎日、毎日、ただひたすら指示されたことを懸命にこなしていた頃に、ふっと、その厳しい上司が、こう言ったのです。
「お前は、あれだな、人間として表裏がないところは、すごいよ!」
この言葉を、斜に構えてとれば「お前は、馬鹿正直」だと、からかわれていたのかもしれませんが、でも、その上司の一言を、私は、なだ先生のように「大切にしてきた」と感じています。
「馬鹿正直と言われても、それが自分らしさならそうしていよう」と。
ただ、私が嘘の一つもついたことがない、と言ったら、これはもう大嘘です。
たくさんの嘘をついてきましたし、かなり、裏表のある人間だと自分では思っています。
上司が指摘したのは、「嘘の一つでもつけばうまくその場を切り抜けられるのに」といった場面で、「嘘をつけばいいのに、正直すぎる」といった意味合いです。ですから、簡単に言えば不器用ということでしょう。
まだ20代の頃でしたから、人間としても未熟でした。
「正直者は馬鹿を見る」
そんな言葉があります。
「正直」であることは人間として誇るべきことです。でも、人をだます輩が確かに存在するこの不条理な世界で、あまりに「正直すぎる」と、うまく世間を渡っていけません。「正直でいい」というのも、「巧みなかけひき」をできない私にとって、「それって自己正当化してるだけじゃん」と言われたら、「そうだよな」とうつむいてしまいます。
そんな私に、正直であることに「もっと誇りもってよい」と背中を押される言葉、ある本で発見しました。前段に書いた対談記事を切り抜いた頃に読んでいた書籍です。その本にこうありました。
この本の中で、ほかにもさまざまな実験が紹介されていたが、中でもぼくがいちばん興奮したのは、「正直者がいちばん得をする」という実験結果だった。
『ほぼ日刊イトイ新聞の本』(講談社)
上記の「ぼく」とは糸井重里さんのことです。本は『ほぼ日刊イトイ新聞の本』(講談社)です。
「この本の中で」の「この本」とは『信頼の構造』(東京大学出版会)です。著者は、社会心理学者の山岸俊男氏です。
糸井さんは『インターネット的』(PHP新書)という本の「プロローグ」に、『信頼の構造』から読み取れる内容をワンメッセージで、こう書いています。
正直は最大の戦略
『インターネット的』に、こんなことが書かれています。
面白いことに、この本の結論は「正直は最大の戦略である」という言葉に集約されてしまうのです。山岸さんの研究は、ある種のゲームをくりかえして、どういう戦略を持った人間が、そのゲームの勝利を得るか、ということを実験していたりするのです。
『インターネット的』(糸井重里 PHP新書)
そこでくりかえし実験した結論が、「相手をだましたり裏切ったりするプレイヤーよりも、正直なプレイヤーのほうが大きな収穫をえる」ということになったらしいのです。
糸井さんは、「勝てば官軍」といった世相にあって、「正直者が馬鹿をみない」という実験結果に「とても救われた」という感想をもらしています。
『信頼と構造』をわかり易くまとめた本が、『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)です。その本にこうありました。
正直さや公正さを大切だと思っている人間はお人好しで、その逆の正直さや公正さなどは方便の一つと思っているような「ずる賢い」人間のほうが、他人の行動を正確に判断できそうな気がします。しかし実験の結果はこの常識とはまったく反対でした。
『安心社会から信頼社会へ』(山岸 俊男 中公新書)
詳細は、本を読んで頂くしかないのですが、社会心理学者として著名な山岸俊男氏も、「そうなるとは思っていなかった」という実験結果なのです。
つまり、糸井さんの言葉でいえば、「正直は最大の戦略」になりうるということです。
「正直なんて、そんな小学生じゃないんだから…」と批判されそうです。でも、米国のリーダーシップ研究の結果に、次のようなデータがあります。
ご覧の通り、「感動を呼ぶリーダー」の特徴を調査したところ、堂々の第1位は「正直さ」なのです。詳しくは、コラム003「リーダーは正直であれ」に書いていますので、参考になさってください。
『信頼のリーダーシップ』(生産性出版)に、こんな記述があります。
「 われわれが行ったほとんどの調査で、正直さは他のリーダーシップの特徴よりも多く指摘されていた。正直さはリーダーシップにとり絶対的な必須条件である。もし人々が誰かに喜んで従うときには、それが戦場へであろうと会議室へであろうとも、その人が信頼に値する人材であるかどうかを確かめたくなる。」
『信頼のリーダーシップ』(ジョームズ・M・クーゼスほか 生産性出版)p19
「正直者が勝者になる」という山岸さんの実験結果には、様々な批評がありますが、「正直なリーダーを多くの人が求めている」という点は、私たちの実感として確かなものがあります。
政治家にしろ、企業の経営者にしろ、不正直な人より、やはり正直で嘘をつかない人のほうが安心して、ついていけます。であるなら、糸井さんの言葉は、ひとつの世の真理を言いあてています。
正直は最大の戦略。
正直者が馬鹿をみない世界であってほしいものです。
(文:松山 淳)