諸葛孔明(しょかつ こうめい)は、中国「三国時代」に活躍した政治家・軍師です。
「三国時代」(184年〜280年)は、中国を統一していた漢王朝(後漢)が、農民の反乱である「黄巾の乱」(184年)によって揺らいだことによって始まります。三国とは「魏」(ぎ)、「呉」(ご)、「蜀」(しょく)です。「黄巾の乱」から、再び「西晋」(せいしん)によって中国が統一される(280年)までが「三国時代」です。
諸葛孔明の「孔明」は「字」(あざな)です。「字」とは中国など東アジア圏で使われた実名以外の名前です。実名は、諸葛亮(りょう)です。
孔明は、三国のひとつ「蜀」の初代皇帝となる「劉備」(りゅうび)の軍師として活躍しました。また、「劉備」亡き後、その子である劉禅(りゅうぜん)を支え「蜀」の国づくりに尽力した人物です。
諸葛孔明とはいえば、故事成語になっている「三顧の礼」ですね。
格上(目上)の人が格下(目下)の人に仕事を頼む時、「三顧の礼を尽くす」と表現することがあります。「三顧」について、辞書にこうあります。
蜀(しょく)の劉備(りゅうび)が諸葛亮を軍師に迎えようとして、その庵(いおり)を三度訪れた故事による〕人に仕事を頼むのに、何度も訪問して礼を尽くすこと。
『三省堂 大辞林 第三版』(Weblio辞書)
諸葛孔明が仕えた「劉備」の活躍は、後漢王朝を苦しめていた農民の反乱「黄巾の乱」(184年)から始まります。王朝が乱を鎮圧する義勇兵を募集し、「劉備」はこれに応募して戦国の世で名をあげていくのです。
義勇兵に志願した時、劉備24歳です。孔明はまだ4歳です。
劉備には関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)といった腹心がいました。しかし、連戦連勝とはいかず、戦いに敗れたり裏切りにあったりして、苦汁をなめることのほうが多かったのです。
そのため、劉備のもとに優秀な人材が集まりませんでした。業績の悪い会社に、優秀な学生が応募しないようなものです。劉備は「戦の弱さ」を克服するために、「優れた人物」を探していました。
諸葛孔明との出会う時、劉備は40代で、「荊」(けい)州を支配する「劉表」(りゅうひょう)の元で、小さな城(新野城)を任されていました。大企業の組織に例えれば、主要都市の「支店長」か、子会社の「社長」といった身分でしょう。劉備が「蜀」(しょく)の初代皇帝になるのは、まだ先のことです。
さて、劉備が諸葛孔明を知るのには、3説あります。
- 諸葛孔明の友人「徐庶」(じょしょ)に教えてもらった。
- 地元の名士「徳操」(とくそう)に教えてもらった。
- 諸葛孔明が、劉備に会いにきた。
この3説をあげて、中国文学者の「守屋洋」氏は、『<実説> 諸葛孔明 』(PHP研究所)の中で、こう書いています。
孔明のほうから会いに行ったという説は面白いといえば面白い。だが、この説を紹介した裴松之自身、「また良(まこと)に怪しむべしとなす」─ありえない話だとして否定している。
『<実説> 諸葛孔明 』(守屋洋 PHP研究所)
これらの説をかさね合わせてみると、どうやら「徐庶」と「徳操」の二人のルートから孔明の名を知った劉備が、瀬踏みを兼ねてみずから会いに行ったということであるらしい。
上の文に出てくる「裴松之」(372~451)(はいしょうし)とは、『正史三国志』に脚注をつけた歴史家です。
諸葛孔明は、20代で、まだ世に名を知られていない人物でした。
劉備は漢王室の末裔です。漢王朝の復興を目指し戦いをかさね、苦渋をなめつつも、天下に名を知られる人物でした。「荊」州で起きた反乱も鎮圧しています。孔明に比べたら、劉備がはるかに格上です。その劉備が、孔明に3度も会いに行き、家臣の一員に加わってほしいと頼み込んだのです。
劉備は、よほど孔明の才能に惚れ込んだのでしょう。
この逸話から「三顧の礼」という故事成語が生まれました。豊臣秀吉が軍師竹中半兵衛を引き入れる時に、「三顧の礼を尽くした」というエピソードが、よく知られています。
「三顧の礼」は、今でいえば、中小企業に勤める優秀な技術者をヘッドハンティングしようとして、大手企業の社長自らが、何度もその技術者を訪ねて、頭を下げて「我が社に来てくれ」とお願いするようなことですね。
実際に、この技術者が社長の要望を聞き入れ大手企業で働きだしたら、その企業の社員たちは、こう噂するかもしれません。
「あの人、うちの社長が『三顧の礼を尽くして』迎え入れた技術者らしいよ」
さて、劉備が惚れ込んだ諸葛孔明は、将軍を9タイプに分類していました。『諸葛孔明の兵法』(著者:高畠穣 三笠書房)に、9タイプについて書かれてあります。今でいうと「リーダーシップ・スタイルの9タイプ」ですね。
9つのタイプは、「仁将」「義将」「礼将」「智将」「信将」「歩将」「騎将」「猛将」「大将」です。簡単な説明を『諸葛孔明の兵法』から引用いたします。「自分はどのタイプだろう?」と、考えながら読んでみてください。
- 仁将:徳と礼をもって部下に接し、飢えや寒さ、労苦を部下とともにする。
- 義将:強い責任感を持ち、その場しのぎをいさぎよしとせず、名誉のためには死を顧みず、生きて辱めを受けようとしない。
- 礼将:地位が高くても傲慢にならず、敵に勝っても得意がらず、謙虚にへりくだり、正直でがまん強い。
- 智将:臨機応変、いかなる事態にも対応でき、わざわいを福に転化し、危機にのぞんでもよく勝ちを制することができる。
- 信将:信将必罰をもって部下に対し、賞するに時を失せず、罰するに貴人を避けない。
- 歩将:軍馬より速く走り、意気高く、よく国境を固め、武器の使用にたけている。
- 騎将:騎馬と弓に長じ、高い山、けわしいところもものともせず、作戦時にはまっさきに進んで敵にあたり、退却時にはしんがりをつとめて全軍を守る。
- 猛将:その意気は三軍を圧倒し、強敵にたじろぐことなく、小さな戦いには慎重であり、強大な敵に遭遇すればますます闘志をかきたてる。
- 大将:すぐれたものは丁重に迎えいれ、他人の勧告や意見をよく受けいれ、寛大で剛直、勇敢で機略に富む。
「将軍」というと、現代のリーダー論にそぐわない感じもありますが、リーダーシップ・スタイルに関わることですので今を生きるリーダーにとっても参考になる内容です。
9つの型を全て身につけなければ「リーダー失格だ」と唱えるのは非現実な話しではありません。
人間に「個性」があるように、リーダーシップ・スタイルにも「個性」があります。昨今、日本でも広がりつつある「オーセンディック・リーダーシップ」とは、「真の自己」を基軸したリーダーシップほど力強くなるという言説です。「オーセンティック」(Authentic)は、「本物の」「信頼できる」という意味です。
ですので、「自分らしさ」を土台に、自分の個性や価値観(ゆずれないこと)を「軸」にしてリーダーシップを発揮していけばいいのです。リーダーシップ・スタイルは、人それぞれ違っていていいわけで、人と比べず、人に流されず、自分なりのスタイルを持つことが大切です。
そこで、諸葛孔明の「将軍9つの型」は、自分のリーダーシップの軸を見極めるためのセルフ・ワークとして使うことができます。例えば、こんなワークはいかがでしょうか。
諸葛孔明が提唱した9つのタイプから、自身のリーダーシップスタイルとして「軸」になると考えるものを、3つ選んでください。
そして、その3つの中から、「これだけは守りたい」「これだけは譲れない」というものを、ひとつに絞りこんでください。
諸葛孔明が仕えた劉備は、人民を愛し、曲がったことが嫌いな人でした。ただ、情にもろく厳しい決断のできない点が弱みでした。ですので、3つに絞れば「仁将」「義将」「礼将」だと考えられます。
もし、ひとつに絞るとしたら劉備は「仁将」です。
劉備は最大のライバルであった「曹操」のように「非情になりきれない」ため、天下取りから遠ざかっていました。しかし、人への深い愛(仁)があるから、「関羽」「張飛」「孔明」など、ついてきた部下たちは一生涯、離れることがありませんでした。また、覇権争いがつづく群雄割拠の時代にあって、「仁」にもとづく政治を行うため、領民たちは「劉備」が領主になることを喜んだのです。
ちなみに、諸葛孔明は軍師ですから、ひとつ選ぶとしたら「智将」でしょう。ただ、大きな愛をもった仁将「劉備」から強く影響を受けていました。
その影響を物語るエピソードとして有名な故事成語が「泣いて馬謖を切る」です。
「デジタル大辞泉」には、「泣いて馬謖(ばしょく)を切る」について、こう書かれてあります。
《中国の三国時代、蜀(しょく)の諸葛孔明(しょかつこうめい)は日ごろ重用していた臣下の馬謖が命に従わず魏に大敗したために、泣いて斬罪に処したという「蜀志」馬謖伝の故事から》規律を保つためには、たとえ愛する者であっても、違反者は厳しく処分することのたとえ。
「泣いて馬謖を切る」のエピソードは、劉備が死んだ後の話しです。
諸葛孔明は、劉備亡き後、その子である「劉禅」を支えていました。「三国」が対立する時代は続いており、長年のライバルである「魏」(ぎ)を制圧することが優先課題でした。「魏」との戦いは、8年間に及び、諸葛孔明は劉禅から全権を任され自ら戦地に赴き指揮をとっています。
「魏」との「ある戦い」で、孔明は「馬謖」(ばしょく)を指揮官に任命しました。馬謖は「才器、人に過ぎ、好んで軍計を論ず」と評される人物。いわゆる「頭が切れて、弁がたつ」タイプですね。指揮官になった時、年齢は39歳で、大抜擢といえる人事でした。
自分に似ていたからなのか、諸葛孔明は馬謖を高く評価していました。
しかし、劉備は違っていたのです。
亡くなる時に、孔明に向かって「馬謖は、言その実に過ぐ。大いに用うべからず。君それこれを察せよ」と伝えていました。つまり、「馬謖を重職につけてはいけない」と忠告していたわけです。
ですが、孔明は馬謖を「参謀職」という重職につけ、いざ戦いの時に、指揮官として抜擢しました。これは劉備のアドバイスに逆らう意思決定でした。
馬謖が指揮した戦いは、大敗を喫し蜀軍は壊滅状態になります。馬謖は敗走し味方陣地に戻ります。そして諸葛孔明は、馬謖を断罪に処すのです。
処罰後のことを中国文学者守屋洋氏は、こう書いています。
「処刑が行われると、10万の将兵はみな涙を流した。孔明はみずから葬儀に列席するとともに、残された馬謖の遺族に対しては、これまで通りの待遇を保証してやったといわれる。厳しさのなかに、こういう温かい配慮をにじませるところが、また孔明の持ち味でもあった。」
『<実説> 諸葛孔明 』(守屋洋 PHP研究所)
諸葛孔明のイメージは「頭の切れるクールな知略家」です。
ですので9つのタイプでは「智将」がふさわしいと思われます。でも、「智将」だけでは人心掌握することはできませんね。
守屋氏が「厳しさのなかに、こういう温かい配慮をにじませる」と指摘している通り、遺族に配慮する「仁将」「礼将」としての側面が諸葛孔明にはありました。「温かい配慮」は、劉備からの影響もあったでしょう。「智将」だけでなく、孔明も、多面的な自分を見せながらリーダーシップを発揮していたのです。
「泣いて馬謖を切る」は、「情に流されず、他人を厳しく処分すること」を意味しますが、諸葛孔明は、この時、自分自身も処罰しているのです。
二代目劉禅に、孔明はこう申し出ています。
「わたくしは、人を見る目がなく、事に当たってしばしば判断を誤りました。『春秋』では、軍の失敗をすべて指揮官の責任に帰しています。なにとぞ三階級降格して、わたくしの責任を糾(ただ)していただきたい」
『<実説> 諸葛孔明 』(守屋洋 PHP研究所)
この申し入れは聞き届けられ、孔明は三階級降格して「右将軍」になっています。孔明のリーダーシップとして注目すべき点ですね。自分にも失敗の責任があることを認め、自身の処罰を忘れなかったことは、「義将」「信将」の側面を見せたといえます。
リーダーは自分のなかに眠るいろいろな「顔」を使い分けながら、その時その時の状況に対応していきます。これをリーダーシップ理論では「状況適合論」といいます。つまり、仕事のことでも、自分自身のことでも、リーダーは「多面的なものの見方」が大切なのですね。
諸葛孔明も、そのことを指摘していました。
それでは最後に、守屋氏の『完本 中国古典の人間学2 兵法書』(プレジデント社)より諸葛孔明の「多面的なものの見方」に関する言葉を記して、このコラムを終えます。
重大な問題はもともと解決が難しく、些細な問題は解決が容易である。しかし、いずれにせよ、問題を解決するためには、一面的な態度で臨んではならない。つまり、利益を得ようとするなら、損害の方も計算に入れておかなければならない。成功を夢みるなら、失敗したときのことも考慮に入れておく必要がある。
『完本 中国古典の人間学2 兵法書』(守屋洋 プレジデント社)
(文:松山 淳)