映画『いまを生きる』(ピーター・ウィアー監督)は、1989年アカデミー賞脚本賞を受賞した名作です。主演は2014年に故人となった名優ロビン・ウィリアムズです。
作中にあるセリフが、AppleのTVCM(2014年)に使われるなど、公開から25年以上の時を経ていますが、今も多くの人に影響を与えています。
『いまを生きる』の時代設定は1959年です。米国バーモントの名門全寮制学院ウェルトン・アカデミーにロビン・ウィリアムズ演じる英語教師ジョン・キーティングが赴任してきます。
学院は名門大学への進学率が高く、厳格な規律を重んじる校風です。ウェルトン・アカデミーが大切にする価値観を「四柱」といいます。「四柱」は「伝統」「名誉」「規律」「美徳」です。
でも、規律・規則があれば、それを破ろうとするのが若者です。いつの世も若者たちは反逆者としての資質を兼ね備えています。
生徒たちは表の顔で「四柱」を尊重しながら、裏の顔では「模倣」「醜悪」「退廃」「排泄」とバカにし、規則による「束縛からの解放」、つまり「自由」を目指してエネルギッシュに行動します。
キーティング先生は「詩」を教え、教科書を破り捨てたり机の上に突然立ったり、型破りな授業で生徒たちを刺激します。
規律に従順であることは、学校側からすれば扱いやすい「よい子」ですが、ひとりの人間としてはどうなのでしょうか。
自己を縛る大きな力(例えば、学校の規則、親の命令)に順応し過ぎることは、時に、「生きる力」を奪うこともあります。
心理学では「過剰適応」と言いますね。親の言うことをいつも素直に聞くけれど、本人は、強い不満を持っている。そんな心理状態が「過剰適応」です。いわゆる「よい子」「いい子」がそうなりがちです。
キーティング先生は、青年期に見られがちな「過剰適応」に警鐘を鳴らし、力強い「独立心」を育てようとします。
キーティング先生は、教師として学校側の人間ですが、生徒の個性や創造性を奪う校風には疑問を抱いています。かといって生徒に迎合することなく、授業では厳しい面を見せます。
教師とは、学校側の人間であると同時に、生徒側の人間でもあります。ひとりの人間に二面的な役割を背負わされた矛盾する存在といえます。
このアンビバレント(両義的)な立ち位置は、二面性(学校側の人間であり、生徒側の人間でもある)をその特性とする「トリックスター」ようです。
私はトリックスター・リーダーシップという考えを『バカと笑われるリーダーが最後に勝つ』(ソフトバンク新書)にまとめた経験があります。キーティング先生の言動を追いかけながら、トリックスター・リーダーシップについて論じていきます。
神話学に登場するトリックスターは、「道化」「いたずら者」と訳されます。その言葉からポジティブなイメージは湧きにくいですね。
ですが、神話に登場するトリックスターは、バカにされ、笑い者になりながら、そのアンビバレントな特性を強みとして物語を前進させる力をもっているのです。
文化人類学者ポール・ランディは、 『トリックスター』(晶文社)にて、こう言っています。
「トリックスターは世界の創造者、文化の確立者として描かれている」(p172)
『トリクスター』(ポール・ラディン、C.G.ユング 晶文社)
「トリックスターのような主要な古い人物はつねに、二つの面、神聖な文化英雄と神聖な道化の面を持っている」(p173)
(by ポール・ラディン)
例えば、日本神話では「スサノオ」は、神話学では「トリックスター」に位置づけられます。
姉である「アマテラス」が岩戸に隠れ、世界が闇に包まれたのは、スサノオが高天原で乱暴狼藉を働いたことが原因です。
高天原を追放されて、出雲の国に降り立ったスサノオは、ヤマタノオロチを退治して村人を助けます。この時、大蛇の尾を引き裂き出てきたのが、かの三種の神器のひとつ「草薙の剣」(クサナギノツルギ)ですね。
スサノオは神様の世界では「悪」でしたが、人間の世界に来ると「善」になりました。「悪」と「善」という矛盾する二つの要素がひとりのキャラクターの中におさまっている「アンビバレント」(両義的)な存在です。
このアンビバレントさがあるからこそ、愚か者としての扱いを受けながらも、あちこちに出没し、他のキャラクターと絡みながら物語を前へ前へと押し進めてゆくのです。
この行動特性は、リーダーシップに通じるものがありますね。
キーティング先生も映画の中でトリックスターぶりを発揮します。
権力に抗う「独立心」を育てようとする先生は、自由を求める生徒からすれば、味方であり「善」ですが、校風の遵守を求める学校側からすれば「悪」です。
厳格な伝統校にふさわしくない指導をしているという理由で、キーティング先生は、カリキュラムに従うように校長から注意を受けます。先生はこう反論しました。
『いまを生きる』(タッチストーン・ピクチャーズ)
このセリフ対して、校長は命令します。
「伝統や規律を重んじろ。生徒を大学に進学させればいい」
『いまを生きる』(タッチストーン・ピクチャーズ)
独立心は、伝統や規律の敵となるのでしょうか。校長のセリフは、「組織のルールに従い、売上や利益をあげればいい」という成果至上主義の権化となった社長の言葉のようです。人間としての成長など無用だと言わんばかりです。
組織では、トップの方針に従わない者は「悪」となります。しかし、トップが「悪」であれば、悪役を引き受け組織に「善」をもたらすのが真のリーダーです。
リーダーシップとは、その時、その場の状況をよりよい未来へと導く意志と行動です。
作中の名シーンに中庭での授業があります。
キーティング先生は、学校の中庭で3人の生徒を行進させます。周囲にいる生徒たちは、その歩調にあわせ拍手をします。先生は行進をとめて、大きな声をあげて諭しました。
誰も人とは違う歩き方をしたいと思う
なのに なぜ手拍子をした
人と同化したいのだ
だが自分に自信を持たねば
他人から非難されようと
バカにされようともだ」
『いまを生きる』(タッチストーン・ピクチャーズ)
社内の常識、世間の非常識。
そんな言葉があります。組織で働き、その会社特有の「常識」に染まり同化すれば、世間の常識からずれていきます。その「ずれ」に違和感を覚えて組織の常識を変革しようとすれば、抵抗勢力があらわれて、必ず批判されます。
「なんで、変えなくちゃいけなんだ、バカじゃないの」と…。
でも、批判が怖くて、何もしなければ、何も変わりません。未来は灰色のままです。
キーティング先生は、生徒に説きながら自身がその教えを実践していた真のリーダーだったのです。
『いまを生きる』は、ハッピーエンドではありません。
ひとりの優秀な生徒が自殺したため、その責任をとらされ、キーティング先生は、学校を去ることになります。先生の教育は、愚かな失敗に終わったのでしょうか。
教壇にある机の上に生徒を立たせた名シーンで、キーティング先生はこう叫んでいました。
別の面から見直せ
どんなにバカらしく思えても
やってみろ」
『いまを生きる』(タッチストーン・ピクチャーズ)
先生が学校を去るラストシーン。
校長が授業をしています。そこにキーティング先生が忘れ物を取りに教室に現れます。すると、生徒たちは自ら、机の上に立つのです。校長がとめるのを聞かず、次から次へと生徒たちが立ち上がっていきます。それは彼らの心に「独立心」が養われた証であり、キーティング先生が目指した教育が成功したことを意味します。
成功は時に、失敗という愚かな顔をして私たちの前に現れます。
今、日本は、企業や人を過剰に攻撃する「不寛容社会」になっています。リーダー受難の時代です。そんな時代にあってリーダーたちを励まそうとトリックスター・リーダーシップという概念を提唱しました。
どんな会社も、名門学院ウェルトンが大切にする「伝統」「名誉」「規律」「美徳」を体現できればいいでしょう。ですが、「清き河に魚住まぬ」ともいいます。
人間にも人が生きる場にも、多少の「濁り」が必要です。「濁り」といっても、法を犯すような不正行為はもちろん許されません。そうではなく、人間の「愚かさ」「失敗」「弱さ」という「濁り」を認め、それを「強み」に変えてゆこうとする組織風土が、働く人々に活力を与えると思うのです。
地域活性化には「若者」「よそ者」「バカ者」が必要だと言います。
スティーブ・ジョブズは「ハングリーであれ、愚か者であれ」(Stay hungry, Stay foolish.)とスタンフォード大の卒業式で学生たちに言葉を贈りました。「中庭の授業」でキーティング先生はこうも言っていました。
完璧なリーダーシップなどありません。例え愚かであろうとも、バカと笑われようとも、正しいことを成し遂げようと自分の歩みを信じて行動してゆくことがリーダーシップに力を与えます。
闘う人を笑うより、闘って笑われるリーダーでいたい。
それがトリックスター・リーダーシップです。
(文:松山 淳)
参考文献:『いまを生きる』(タッチストーン・ピクチャーズ)