何度か「ラフティング」に挑戦したことがあります。
大きなゴムボートに乗り込み、激流を下っていくスポーツです。楽しさ半分、恐さ半分です。遊園地にあるジェットコースターに乗っている気分ですかね。笑いながら顔がひきつります。
インストラクターの指示に従い、オールをこいだり、水の中で止めたり、はたまた、逆にこいだり…と思ったら、オールを水から上げて、両手で握り、ボートの中に頭を下げて体を沈める。
進行方向前側に乗っている人間と、後側に乗っている人間。また右側にいる人間と左側にいる人間。それぞれに、違う指示が飛ぶこともあります。同じボートの上で、それぞれが、ばらばらの動きをすることもあるのです。
その繰り返しです。それぞれが違う動きをしながら、ボート全体のバランスをとって、激流を乗り越えてゆきます。
ホントに仕事に通じています。
メンバーとして乗っている側は、必死になってインストラクターの指示に従っているので、ただ激流に流されているように感じます。果たして、自分の働きが何かの役に立っているのだろうか…と。
でも、流されてはいないわけですね。役に立っているのです。大自然の激流に飲み込まれているようで、自らの「意志」がそこにあり、自らの働きが大自然に確かに作用しているのです。「何の役にも立ってない」と、すねて、手をこまねいていたら、転覆です。
流れ流れながら、次から次へとその時の環境に応じて戦術を繰り出す。目まぐるしく変化しながら、ボートのバランスという全体の「調和」を保つ。
「安定」が「調和」を生み出すのではなく、「躍動」が「調和」を生み出している。
これは会社経営やプロジェクトを統括するリーダーシップに通じる話しです。
群馬県水上の利根川源で、初めてラフティングを体験した時が忘れられません。
激流を下っている最中、大きな岩にぶつかりボートが横倒しになったのです。私はお尻が水につかり、ボートのへりに足をひっかけるようにして空を見上げました。ちょうど、椅子に座り、そのまま背中から倒れたような感じです。激流に投げ出されないように、腹筋を使って必死に耐えました。
その時、同乗していたインストラクターの顔が、見えました。自らもひとりのプレイヤーとしてオールを操作し、もの凄い形相で指示を出しています。
流れに応じ、流れに耐え、流れを利用し、ピンチを乗り越えようとする。「ま〜いいか!」なんて思ったら、転覆ですね。
危うく転覆するところでしたが、インストラクターの指示がよかったのか、ボートは縦になったまま激流を下り、流れが緩やかになったところで元に戻りました。同乗していたメンバーは、興奮して声をあげていましたが、私がそうであったように、内心は「助かった」と胸をなでおろしていたことでしょう。
インストラクターの形相を後から思い返すと、実は、かなり危なかったのではないかと思います。なぜなら、そんな険しい表情を見せたのは、その時だけだったからです。
このインストラクターはニュージーランドから来た海外の人でした。 瞳はブルーであごひげをはやし筋骨隆々。ニュージーランドはラフティングの本場です。本場でかなりの経験を積んできていたようです。
で、このインストラクターは、本当に「お節介」な人でした。
素人集団を乗せて激流に挑むわけですから、会社のリーダーに例えれば、新入社員だけでビッグプロジェクトにのぞむようなものです。ふざけてしかっりと漕がないと、時に厳しく、肩をぎゅっとつかんで漕ぐように叱られます。私の仲間のひとりは、肩をつかまれムっとしていました。でも、転覆するよりはましです。
インストラクターは、激流を乗り越えるたびに、オールを上げて皆に雄叫びを上げさせます。歓喜の声があがると、その度、皆を褒めます。緩やかな流れが続くところでは、余計なことをせずに、ゆっくり休むように指示します。そして、また激流の箇所がやってきます。
肩をぎゅっとつかみ「漕げ」という指示は「金言耳に逆らう」命令です。それは、ちょうど中間地点くらいでした。いくつかの激流を越えて、少しは慣れてきた時です。中だるみですね。
その後、私の仲間は場所を交代させられました。会社でいえば人事異動です。指示したのは、もちろんインストラクターです。こちらは「遊びにきた」という思いがありますから、そんな厳しくしなくてもいいのではないかと、本当に「お節介」だと感じました。
でも、その「お節介」は、安全第一を目標として確実にゴールへたどりつくためにぜひとも必要な「いい意味でのお節介」でした。お節介でなければ、インストラクターは務まらないでしょう。
「お節介」。耳慣れた言葉です。「お節介」の意味は、「出しゃばって世話を焼くこと」です。そこで、ふと思うのは「節介」とは何のことでしょうか。「節介」を辞書(デジタル大辞林)をひくと、こんな意味があります。
節操を固く守って世俗に流れないこと。(デジタル大辞林)
「語源辞典」の解説だと、「節介」の本来の意味は「節操を固く守って世俗に流れないこと」であって、「出しゃばって世話を焼くこと」は、別の語源との解説がありました。
「お節介」は、「余計なお世話で」あり、本来、あまりいい意味で使われませんね。ネガティブな言葉です。「あの人は本当にお節介だ!」と語気を強める時、それは多くのケースで悪口です。
でも、「節操を固く守って世俗に流れないこと」は、ポジティブな意味です。「節操」は「自分の信じる主義・主張などを守りとおすこと」(デジタル大辞泉)です。
これをリーダー論っぽい言い方をすれば、「節介」とは、「信念をもって世俗に流されずに行動すること」といえます。
「お節介」は、される側からすると「ありがた迷惑」「余計なお世話」ですが、お節介焼きは、人や課題に積極的に関わろうとする特性を持っています。
親の小言が大人になってから「ありがた味」を感じるように、「ありがた迷惑」が、後で、「ありがたかった事」になるのも人生ですね。
この「お節介焼き」がもつ「積極的関与」(active involvement)は、リーダーシップに欠かせない要素です。人と関わること、課題や問題に関わること、それらから逃げないことは、リーダーに求められる大切な資質です。トラブルが発生した時に逃げるリーダーは、部下たちから信頼されなくなります。
そこで、語源は違うため、その意味がポジティとネガティブで相反してはいるものの、「節介」にあるふたつの意味を融合すれば、リーダーの条件といえる「いい意味でのお節介」ができあがります。
積極的に人や課題に関わりつつ、信念を持って流されずに行動すること。
まさにリーダー論として教科書的な定義です。
「○○さんからは、学んだな〜」
「○○さんには、本当にお世話になった!」
「今の自分があるのも○○さんのおかげ」
そうしみじみ感じる恩人が、どなたか思い出せませんでしょうか。私がそう感じる恩師と呼べる人たちに共通する特性が、やっぱり「お節介」なのです。
そのお節介な人たちは、会社の大勢に流されないリーダーでした。と同時に、時代の流れを見失わない人でした。組織の中で、流されないと抵抗するだけなく、職場に「うねり」を作りだし、その流れに乗っていく人でした。
その流れが激しくなると、ラフティングのインストラクターのように、部下であった私に、次から次に指示命令がきます。仕事の質が悪いと、叱られましたし、長々と説教もされました。若かったこともあり、「まったく、うるさい上司だな」「面倒くさい人だな〜」と、反発したことは数限りありません。
でも、今、つくづく感じるのは、「私はその上司に育てられた」「あの人がいなかったら、今の自分はない」という、とても強い「ありがた味」であり感謝の気持ちなのです。
当時は腹の立つことも多かったですが、それは本当に「いい意味でのお節介」でした。
「驥尾(きび)に付す」
この言葉は、「優れたリーダーに従えば、凡人でも事をなし遂げる」という意味です。「驥」とは、「1日に千里もの道を行く名馬」のことです。
「今回のプロジェクトを無事終えることがきたのは、○○さんの驥尾(きび)に付しただけです!本当にありがとうございました」
そんな感謝の言葉をもらえるリーダーとは、「いい気味でのお節介」をし続ける人です。
「いい意味でのお節介」を続け、部下から感謝されることの多いリーダーになりましょう!
長々と書いてきましたが、結論は、とてもシンプル。
「リーダーはお節介であれ!」…です。
(文:松山淳)