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真剣であること。
仕事にしても、プライベートにしても、人生を生きていく上で大切なことです。「真剣」なんて聞くと、ちょっと重苦しい感じがします。でも、多くのリーダーたちが口にする、こんな力強い言葉があります。
真剣だけれど、深刻にならず。
本来、「真剣」とは、木刀や竹刀ではなく、人を斬ることのできる「刀」です。かつて「真剣勝負」といったら、「真剣」での「命」をかけた勝負のことでした。「命」がかかるのですから、自然と「真面目」「本気」になります。そこから転じて、「真剣」は、「まじめに物事に対するさま。本気で物事に取り組むさま」(デジタル大辞泉 小学館)といった意味になります。
現代の俗語で「ガチンコ勝負」とか「ガチで」とか言いますね。これは「真剣勝負」「真剣」と、ほぼ同じニュアンスでしょう。
「深刻」には、「思い悩む」という意味が含まれます。ですので、「真剣だけれど深刻にならず」は、「真面目に本気でやって、思い悩むな」という励ましのメッセージになります。
どれだけ真剣になれるか。人生の様々な場面で、私たちは「真剣度」を試されます。
リーダーになるミドルの年齢になると、結婚をして子どもをもち、会社ではリーダー層となって部下をもち、様々な課題を背負うことになります。その課題を解決しようとする時、「真剣であるか否か」が問われます。
心理療法家の河合隼雄先生の著『働きざかりの心理学』(新潮社)に、こんな悩ましい話しが事例としてあげられていました。
Kさんという一流会社に勤める人がいた。「家庭サービスのKさん」と同僚が仇名(あだな)をつけるほど、家庭を大切にしていた。
妻も子もKさんのサービスを喜んでいるようであったが、その要求がだんだんとエスカレートしてくるのにKさんは困ってしまった。
しかし、Kさん夫婦は、一方では馬鹿げていると思いつつ、子供にみじめな思いをさせたくない、と思ったりして、つい子供の要求に屈してしまうのである。
そんなことを続けているうちに、長男が中学三年生となったとき、家族旅行には参加しないから「お金をくれ」と言う。ショックうけながらそれに従ったが、
旅行中、その子は友人を家によび、酒を飲んだり煙草をすったりした。
そのことを知ったKさんは激怒。長男を殴りつけ長々と説教をした。それ以来、その子は、両親に反抗して勝手なことをするようになった。
Kさんの家庭サービスの努力は水泡に帰してしまった。
『働きざかりの心理学』(河合隼雄 新潮社)p34-35
河合先生は、子どもが荒れてしまった原因を「父親不在」としています。矛盾していますね。「Kさん」は、「家庭サービスのKさん」と呼ばれるほど、家にいる時間を長くし、子どもに尽くしたのです。「不在」ではなく「在宅」していたのです。
それを「父親不在」というのはどういったことでしょう。
河合先生は、こう書いています。
人間は何かよいことをするとき、少しは無理をしたり、努力したりしなくてはならぬものである。しかし、それをやり過ぎると、心がそこから脱け出してしまう。Kさんは家庭サービスをしながら、その心は仕事のことや、楽しくゴルフをしている同僚のことなどの方に脱け出している。
確かに「父親」の体は、子どもと一緒にいました。でも「心が上の空」になっていて、「心」は一緒ではなかったのです。その結果、父親が「そこいるのに、そこにいない」ように、子どもには感じられていたのです。これが「父親不在」という意味です。
父「Kさん」は、無理をしていました。会社を後まわしにして、家庭サービスにいそしむ姿は、子どもがあまり見たくない「痛ましい父」でした。
Kさんは「真剣」ではなく「深刻」な状態で、家庭サービスをしていたのですね。子どもが無理な要求をしてくるのは、「いい加減、お父さん無理するは、やめてくれよ」という心の叫びでした。
子どもは、心の深いところにある本当の思いを、なかなか言葉することができません。すると、親や先生に反抗したり無理難題を突きつけたり、問題を起こすことでメッセージを伝えようとします。
Kさんは、深刻な状態なので、子どものメッセージに気づけませんでした。
また、家族サービスをしつつ「これだけやってやったんだから、不満はないだろ」という「見返りを求める心」が、Kさんに働いていたのかもしれません。純粋な「家族愛」から動いていれば、「見返り」はいらないはずです。「ただ一緒にいたい。一緒にいると楽しいし嬉しいから、ただそうしているだけ」のはずです。
もし「見返り」を求めていたら、子どもには見抜かれてしまいます。「お父さんはボクを、自分の思うようにコントロールしようとしている」と…。それも要因のひとつとなって、「そこいるのに、そこにいない」父親不在の状況をつくり出していたのでしょう。
「心ここにあらず」は、「真剣」とはいえません。
では次に、河合先生の別の本にあった「父親と子ども」に関する似て非なる事例をお話します。
『人間の深層にひそむもの』(大和書房)からです。不登校になった子どもと父親の話しです。
子供があれ買ってくれ、これ買ってくれというんですね。子供の気持を理解してやらなければいかんというので買ってやる。中には学校行かない子が、お父ちゃん、自転車買ってくれたら行くわというので、無理して自転車買ったら、そこらで乗ってるけれども学校へ行かない。
今度はもう少し上等の靴がないと格好悪いというので、また靴を買うと、それはそれでまた行かない。こうしている中にだんだん子供のいうものが高くなってくる。
そこでたまりかねてお父さんが子供を部屋に呼んで月給袋をみせた。
お前、お父さんの月給はこんなんや、知ってるか、というたら子供はものすごくびっくりしてしまった。
(中略)
お父さんが、俺が一ヶ月の間一生懸命働いて、これだけのお金をもらってきて、そしてお前の欲しいものはいくらだというと、その子は現実の厳しさに触れて、そこから立ち上がった訳です。
『人間の深層にひそむもの』(河合隼雄 大和書房)p127
このお父さんは、「父性」を発揮して、子どもの前に立ちはだかりました。「家庭サービス」という名のもとに、無理して子どもの要求を受け入れ続けてしまった「Kさん」とは違います。自分の「給料袋」を見せることで、真剣に話しをして、子どもに現実の厳しさを教えました。
「父性」とは、社会・現実の厳しさを知り、それを他者に伝える力です。
「給料袋」というと、いかにも「昭和」で、古臭さを感じさせますが、このエピソードの本質はもちろん「不登校の子に父親の給与額を教えれば、学校に行くようになる」という短絡的な話しではありません。
今を生きる私たちに通じる教訓が含まれています。
河合先生は、「他人の答えを真似ればうまくいく」という問題への対峙のしかたに警鐘を鳴らします。そこに本質があり、こう言っています。以下に出てくる「あの先生」「京大の先生」は、河合先生のことです。
うちも一ぺんお父さんの月給袋を見せてやろう(笑)。これは絶対駄目です。何故だめかわかりますか。あの先生がいった奴でいこうと思った途端に、その人はもう生きていないんです。そうでしょう。自分のギリギリの、自分の力で考え出して、死にもの狂いでたたきつけたんではなくて、あの京大の先生がいわはったと思った途端に、(中略)その人の規範ではなくて、よそから入った規範にのってるのだから、それは本来的な意味で父親的なものではない。父なるものではないんです。
『人間の深層にひそむもの』(河合隼雄 大和書房)p127-128
頭を悩ます複雑な問題を解決しようとして、人と真剣に向き合うには、「自分のギリギリの自分の力で考え出したものを、死にもの狂いでたたきつける」ぐらいの覚悟が求められます。
そう「真剣」になれば、「そこにいながら、そこにいない」ではなく、「心と体が一緒になって、そこにいる」という状態となり、人の心を動かすのです。
不登校になった子どもは、「給料袋を見せられたこと」に、心を動かされたのではありません。真剣になって自分と向き合ってくれた「真のお父さん」を、そこに見たからこそ、心が動き不登校から立ち直れたのです。
給料袋を見せたお父さんは、まさに子どもと「真剣勝負」をしたわけですね。逆に「家庭サービスのKさん」は、無理にサービスをすることで、子どもと「真剣勝負」をすることから逃げていたといえます。
給料袋を見せたお父さんのような「真剣さ」が、ここぞという時ほど大切です。
今は、職場で「叱る」のが難しい時代です。メンタルヘルスの問題もあれば、ネットに「パワハラ」だと名指しで書かれてしまうこともあります。「部下がこっそり会話を録音していた」という嘘のような本当の話もあります。
でも、叱る時には叱らねばならず、リーダーとして、避けては通れない道です。不思議なもので、大きな声で叱るのに、あまり悪口を言われない上司がいます。反対には、叱ることは少ないのに、悪口を散々、言われる上司がいます。
ふたりは、何が違うのでしょうか?
悪口を言われる上司は、日頃、こんな感じなのです。
ある課長が部下を叱っています。部長が席に戻ってきました。すると、やたらと声が大きくなりました。周りから見ていると、課長はチラッと部長を見るわけです。
もうおわかりの通り、課長は叱りながら「心が上の空」です。「そこにいながら、そこにいない」のです。心は部長に向いていて部下に向いていません。部長の方へと心が脱け出しているのです。
叱る部下のことを考えているのではなく、自分の評価を気にしながら叱っています。心のベクトルが自分へ向いています。「部下のために叱っている」のではなく、「自分のために叱っている」のです。これでは、とても「真剣」とはいえず、部下の心に響きません。
次の話しは、私が20代の頃の実体験です。
若手で飲み屋に集まると、上司を話のネタにして盛り上がりますね。悪口も自然に出てきて、それがいいストレス発散になっていました。
職場で大きな声で叱る上司がいたのですが、その人のことが「悪口のネタ」にならないのです。ある時、誰かがそのことに気づいて、「散々、俺たち上司の悪口言っているけど、なんで、あんなに怒鳴る●●さんの悪口は言わないんだろう?」と、ぼそっと言いました。
すると沈黙がしばらくあって、「なんでだろうな」と誰かがいって、それで別の話題に切りかわってしまいました。まだ20代だった私は、その答えを見つけ出せませんでし、あまり深く考えもしませんでした。今なら、こう答えるでしょう。
あの人は、いつも真剣なんだよ。俺たちのことを真剣に思って叱ってくれている。だから叱られるのはもちろん嫌だけど、悪口にはならないんだよ。
当時、そう答えたとしても、話しは流されてしまったかもしれません。でも、今思うと、あの上司は確かに、何をするにしても真剣でした。
真剣になる。
すると腹が立ちます。だから叱ります。真剣に叱ります。その真剣さも一緒に伝わっていきます。いい加減に叱ります。すると、そのいい加減さも伝わります。そして、そのいい加減さに部下は腹をたてて、結果として悪口になります。
かつて名将と言われた野村克也監督に、こんな言葉があります。
「褒めるも叱るも同義語」
この言葉の解釈はいろいろとできますが、このコラムの文脈からいけば、「真剣であれば、褒めても叱っても同じこと」となります。
褒めるのがいいのか。叱るのがいいのか。時にリーダーにとって悩みになります。でも、どっちでもいい、ということです。
褒めるか、叱るかに悩むのではなく、悩むべきは「真剣であるか?どうか?」です。
(文 松山淳)