「ユング年表(1)」に続き、『ユング自伝2』(みすず書房)に記述された内容をもとに、年表を作成。ユングの中年期から晩年までの主な出来事を時系列でまとめてある。補足として『エッセンシャル・ユング』(A・ストー 創元社)にある年表を参考にしている。
1918年から1926年の間、グノーシスについて真剣に研究(p4)
※グノーシス主義3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った宗教・思想。自己の本質と真の神についての認識に到達することを求める思想である。物質と霊の二元論に特徴がある。(Wikipedia)
三月に出発しアフリカへ。アルジェ(アルジェリアの首都)→チュニス(チュニジアの首都)→スース(チュニジアの都市)→スファクス(チュニジア東部の港湾都市)→サハラ砂漠→トズール(チュジニア南部の都市)→ネフタ(チュニジア南西部の町)→チュニス(チュニジアの首都)→マルセイユ(フランス南部港湾都市)
『心理学的タイプ論』を出版する。国際的性格検査MBTI®︎のベースになる理論である(p11)
ユングは家を建てるために、スイスのボーリンゲンの土地を購入する。その土地は、聖マインラット寺院の地域内で湖に面している。(p34)
ボーリンゲンの最初の家(二階建ての「住居の塔」)が完成する。ユングは家のことを「塔」を書いている。(p35)
長女が建築現場に来て「このあたりには死骸があるわよ」と叫んだ。4年後(1927年8月22日)、長女のいう通り死骸が出てきた。(p46)
1924年の早春の頃、ボーリンゲンの家にいる時、幽霊の行列の夢を見る。(p43)
12月、アメリカへ旅に出る。アメリカへは2度目となる。(p67)
ニューメキシコのインディアンを訪問する。村長のオチウェイ・ビアノと話をし、ヨーロッパ人(白人)との考え方の違いを知り、強いインパクトを受ける。ビアノは「白人たちはいつもなにかを欲望している。いつも落ち着かず、じっとしていない。…」といった。ヨーロッパの国々は、遠く離れた様々な国を殖民地化してきた歴史がある。(p68)
ロンドンで開催されたウェンブリー展を訪れる。ウェンブリーは、ロンドン郊外にある町のこと。この展覧会で、イギリス統治下の諸民族のことを知り、アフリカへの旅を決心すr。(p76)
秋、イギリス人とアメリカ人の友人とで「モンバサ」(ケニア共和国の都市)へと旅立つ。モンバサに2日間滞在し、ナイロビ(ケニア共和国の首都)へ。列車から「孤独な狩人の黒人」を見てデジャヴ(既視感)を体験する。(p77-78)
ユングが錬金術との出会いを早める夢を見る。(p6)
ユングは何かが欠けていると感じ、最初に建てた家に「別棟」を建築する(p35)
8月22日、塔の増築中に、土地から死骸(骸骨)が出てきた。ユングの長女は、この土地に死体があることを口にしていた。(p46)
錬金術の本『黄金の花』をリヒアルト・ヴィルヘルムが送ってくれたが、2年間、手をつけずにいた。(p8)
※リヒアルト・ヴィルヘルムは、ドイツの中国学者、神学者
錬金術の研究を10年以上つづけ、ユング心理学(分析心理学)と錬金術がぴったり合うことを見出す(p9)
論文「心的エネルギー」発表(p13)
リヒアルト・ヴィルヘルムと『黄金の花の秘密』について共同研究をする。(p12)
ユングはボーリンゲンの家が原始すぎると感じ、さらに「別塔」を増築する。この中には、ユングが独りでいられる部屋があった。ユングは、この部屋を「霊的集中の場」と書いている(p35)
1913年に1度訪れたイタリアの都市ラヴェンナへ旅行しガルラ・プラチディア廟を訪れる。ガルラ・プラチディア廟の中に、1913年の時にはなかったモザイク画を見ながら、同行した人と議論する。後に、見たはずのモザイク画が存在していないとわかる。幻覚だったのか。ユングは「この経験は、私の生涯のもっとも奇妙な出来事の、幾つかのうちの一つである」と書く(p118-119)
ハーバード大学より名誉博士号を授与。
カルカッタ大学の25周年記念祭の祝典に参加するよう、インドのイギリス政府から招かれた(p105)
第4の構成部分として、さらにボーリンゲンの家=「塔」を増築。最初の家の建築から12年の歳月が経過した。(p36)
ユングが会長となり、オックスフォードで精神療法国際会議が開催。
オックスフォード大学より名誉博士号を授与。
『心理学と錬金術』の研究に打ち込んでいた頃、ある晩、輝く光を浴びた十字架上のキリストの姿を見る。ユングはこうした幻像(ヴィジョン)をよく見る(p15)
第4の構成部分として、さらにボーリンゲンの家=「塔」を増築。最初の家の建築から12年の歳月が経過した。(p36)
心筋梗塞につづいて足を骨折する。危篤状態となり臨死体験をする。ユングは宇宙空間にただよい地球を眺めていた。後をふりかえると隕石のような石の塊があった。その中に入っていくと礼拝堂があった。自分の人生について考えていると、担当医Hのイメージが浮かんでくる。H先生は、ユングが地球から立ち去ることに異議があると、ユングにメッセージを伝えるために地球から派遣されてきた。このメッセージを聞いた途端に幻像は消えた。生きる意欲をとりもどすのに3週間ほどかかる。(p124)
チューリッヒにある「ユング研究」が開設される。
ボーリンゲンの家の庭に記念碑をつくる。その碑に錬金術師であり医者でもあったアルノー・ド・ヴィルヌーヴが書いたラテン語の詩を刻んだ。
「ここにみすぼらしい、不恰好な石が立っている。
それは、かねにしても安いものだ。
その石は愚者に軽蔑されればされるほど、
ますます賢者に愛される」(p39)
錬金術師アルノーは、ブランデーを初めて蒸留した人ともいわれる。
妻エンマ・ユングが亡くなる。(p36)
妻を死をきっかけに、ボーリンゲンの家=「塔」の中央に2階部分を増築。これで最終的な完成形となる。(p36)
チューリッヒの連邦工科大学より名誉博士号を授与。
キュスハナトの自宅で6月6日に亡くなる。享年85歳。
(文:松山 淳)
【参考文献】
『ユング自伝1』(C.G.ユング ヤッフェ編 訳 河合隼雄 みすず書房)
『エッセンシャル・ユング』(A・ストー 創元社)