死にたい気持ちを乗り越えるには、見失ってしまった「生きる意味」を発見していく。見失ったとは、消えたことではない。「あるもの」が見えなくなっているだけ。だから「生きる意味」を見つけ出すことができる。そのためには、未来に対して「楽観的」になること。
これをフランクル心理学で「発見的楽観主義」(Heuristic Optimism)という。
未来は決まっていない。人生は常に変化を続けている。小さな変化が大きな変化になるのが人生であり、未来には変化の可能性が常に残されている。それは「生きる意味」を再発見できる証である。実際、絶望的状況を乗り越えていく人が確かにいる。
だから、辛い状況を急に変えられないが、今、自分にできることに懸命に取り組んでいく。
変えられないことは受け入れ、変えられることにベストを尽くす。
そうして生きていけば、何らかの変化が起きて「生きる意味」が姿を現す。生きる勇気がわいてくる。
フランクル心理学は「逆境の心理学」と呼ばれる。フランクルの教えを紹介しながら、「死にたい」と思う絶望的状況を乗り越えていく考え方について解説する。
絶望を乗り越えるフランクル心理学
心理学者フランクルがナチス強制収容所での体験を書いた『夜と霧』(英題『Man’s Search For Meaning』)は、世界的ベストセラーとなり、今も読み継がれています。
『夜と霧』は1946年に出版されました。70年以上も世界中の人たちに読まれ、元気を失った人たちに「生きる力」を与えてきました。
現在の日本で『夜と霧』を知っている人は決して多いとはいえません。その『夜と霧』が、どの本屋に行ってもうずたかく並べられた時がありました。多くの日本人が、フランクルの教えに耳を傾けた時期があったのです。
2011年3月11日、東日本大震災が発生した後のことです。
「3・11」が発生し、東北を中心に多くの地域が壊滅的な打撃を受けました。福島の原発も予断を許さない状況となり、日本全体が危機的状況に陥りました。死者・行方不者の数は1万8千人以上。数多くの人が絶望の淵に突き落とされたのです。
フランクルが経験したナチス強制収容所と東日本大震災の現場を単純に比較することはできません。ただ、自分の意志とは無関係に「絶望的状況に立たされた」という点では共通しています。
「こんなに辛いなら生きている意味がない、死んだほうがましだ」
ナチス強制収容所は、そんな思いを抱かざるを得ない地獄のような地です。東日本大震災では、多くの人が愛する家族(親や妻や子)を失いました。「生きる意味」「生きがい」を一瞬で奪われました。
「生きていて意味がない、もう、死にたい」。
そう考えた人は、どれほど多かったことでしょう。
フランクルは、死が日常の強制収容所にいながら、仲間を励まし、共に生き延びました。決して希望を見失いませんでした。それができたのも、自身が打ち立てた心理学「ロゴ・セラピー」(logotherapy)の教訓を忘れなかったらです。
フランクルは『〈生きる意味〉を求めて』の中で、こう書いています。
決して忘れてはならないのは、希望のない状況にたとえその犠牲者として向き合おうが、また変えようなのない運命に直面しようが、そんな人生の中にも、人は意味を見出す、ということである。
『〈生きる意味〉を求めて』(V・E・フランクル[著]、諸富祥彦 [監訳] 春秋社)p54
フランクル心理学は「絶望に効く心理学」「逆境の心理学」とも呼ばれます。
ですので、東日本大震災という絶望的な状況をなんとか乗り越えようとして、多くの日本人が『夜と霧』を買い求めたのでしょう。
その事実は、フランクルの提唱した「意味への意志」(Will to meaning)が働いたことの証明ともいえます。「意味への意志」とは、「生きる意味」を求める人間の根源的な心の働きのことです。
絶望を感じる状況になればなるほど、
「今のこの状況にどんな意味があるのだ」
「こんなひどい人生を生きていて意味があるのか」
と、人は「生きる意味」を問いたくなるものです。
そしてもし、「それでもなお、生きる意味はある」と納得できたら、「死にたい」と思う絶望的状況を、人は乗り越えていくことができるでしょう。
生きる意味を深く考えるフランクル心理学は、絶望を乗り越えていく心理学といえます。
成功しても人は絶望する
自然災害などで突然、愛する家族を失い「生きる意味」を感じられなくなると、強い「虚しさ」にとらわれ「死にたい」と考えてしまうことがあります。これは急性型の空虚感です。
急性型に対して慢性型の空虚感もあります。理由がわからずとにかく虚しくて、「死にたい」と考えてしまうケースです。恵まれた環境で生活していても、慢性型の空虚感のために「死にたい」と絶望する人がいます。
フランクルは22歳のある大学生から、こんな手紙を受け取ったことがあります。
「ぼくは学位をもち、ぜいたくな車を所有し、金銭的にも独立しており、またぼくの力に余るほどのセックスや信望も思いのままです。ぼくにわからないのはただ、すべてのものがどのような意味をもつべきかということだけです」
『生きがい喪失の悩み』(V・E・フランクル[著] 中村友太郎[訳] 講談社)p52
フランクルが現役の医師だった当時、生きる意味の喪失感、空虚感から自ら命を断つ大学生がとても多かったのです。
「生きがい」を求めて、「生きる意味」を求めて、必死に努力して、がんばってがんばって、求めていたものを手にいれたけれど、待っていたのは苦悩であり絶望だった。
「死」を選んだ大学生たちは、借金や不治の病で苦しんでいたわけではありません。まして、手紙を書いてきた大学生は、学歴はよく、お金もあり、女性に好かれ、人望まであります。どうしてこれほど恵まれていながら、「生きる意味」について苦悩するのでしょう。
なぜなら、社会的(外的)な成功だけでは「生きる意味」を満たしえないことがあるからです。
フランクルのいう「意味への意志」(Will to meaning)は、人間の根源的な心の働きです。そのため、お金や学歴など外からの要因では不十分になることがあります。自分自身の内面で感じる「意味がある」という納得感が重要なのです。
まるで「生きる意味」と「成功」は別々のコップであり、成功のコップをどれだけ満たしても、「生きる意味」の決して満たされないかのようです。
生きる意味が満たされなければ、人はむなしさで苦しみ、死にたい」という感情にまで発展していくことがあります。
「成功と失敗」から「絶望と意味」の軸へ
そこでフランクルは、虚しさを生み出す「成功と失敗」の2軸でとらえる考え方は、「ホモ・サピエンス」の人生観であると定義しました。
「ホモ・サピエンス」とは、「知恵をもった賢い存在」ということです。「ホモ」が「人間」を、「サピエンス」が「知恵」を意味します。
これに対してフランクルは、「ホモ・パティエンス」(Homo patiens)を提唱しました。
「ホモ・パティエンス」とは「苦悩する人」ということです。「パティエンス」は「苦悩に耐える」という意味です。フランクルはこう書いています。
苦悩する人は、苦しむ術(すべ)を知る人、自分の苦しみからさえも、人間的な偉業を創りあげる手立てを知っている人である。
『〈生きる意味〉を求めて』(V・E・フランクル[著]、諸富祥彦 [監訳] 春秋社)p59
ホモ・サピエンスの「人生観」は、「成功と失敗」の横軸を移動します。
成功すればOKだけど、失敗したら「自分はダメな存在だ」と自己否定しがちです。「成功と失敗」の横軸の価値観だけでは、失敗(自己否定)の恐れに駆り立てられ、成功を追い求めて、いつまでもいつまでも走り続けなければなりません。
フランクルに手紙を書いた大学生は、成功しながら絶望しているエリアにポジショニングすることができます。
「成功の法則」に関する本を買いセミナーに次から次へと参加して、でも実りが少なく「こんなんじゃダメだ」と、またセミナーに参加して…それなのに人生に満足できていない(生きることに充実感のない)状態は、水平軸(成功と失敗)を行ったり来たりしているだけです。
これに対して、「ホモ・パティエンス」は、「意味と絶望」の縦軸を往復します。人生、山あり谷ありです。どんな人にも絶望を感じるような出来事は起きてきます。「死にたい」と思うことは、決して、珍しいことではありません。
フランクルは、「苦悩は人間の業績である」とし、次のようにいっています。
「ここで一番大切なことは、ユニークな人間の可能性の最高の形を見つめ、その証人になることであり、悲劇をその人にとっての偉大な勝利に変えることであり、苦境を人間的な偉業に変えていくことである」
『〈生きる意味〉を求めて』(V・E・フランクル[著]、諸富祥彦 [監訳] 春秋社)p54
フランクルはナチス強制収容所に投げ込まれ、悲劇を偉大な勝利に苦境を人間的な偉業に変えた「生き証人」です。
強制収容所では発疹チフスという死の病に冒(おか)されながら、自分の考えた心理学をいつか本にするという使命感を持ち原稿を書き続けました。そのお陰で「死の病」も克服できたといいます。そして、収容所で書いた原稿は、戦争が終わり解放された後、出版されて世界中の人々が読むことになったのです。
実は、フランクルはアメリカに亡命することもできました。
ですが、家族を見捨てず、国に残る決断をし、収容所に入れられたのです。骨と皮だけになるような飢餓状態になり、監視官に殴られながら土木作業に取り組む日々です。ちなみに、フランクル家族は皆、強制収容所で亡くなりました。まさに絶望的状況です。
その状況を「成功と失敗」の横軸で考えたら、明らかに「失敗」であり、縦軸で見たら「絶望」のエリアです。
でも、フランクルは、失敗であっても、絶望的状況でも、そこに「生きる意味はあった」といいます。
苦しくて「死にたい」現実にあっても、「生きる意味」を発見し、「死にたい」状況を乗り越えることは可能なのです。
つまり、どんな時にも、どんな状況でも、私たちは「生きる意味」を見出すことができるのです。
先ほどの図に囚人とありました。これは、アメリカの州立刑務所にいた囚人ナンバー020640「フランク・E」のことです。罪を犯し刑務所入れられていました。その点では、囚人フランクの人生は失敗であったといえます。
ところが、囚人フランクは、刑務所でフランクル心理学に出会いました。仲間と本を読み、フランクルの講演テープを聞きました。囚人たちは涙を流します。
そして、フランクは絶望の中から「生きる意味」を見つけ出し、フランクルに手紙を書きました。
「私は、こんな刑務所の中にいるにもかかわらず、私の存在の本当の意味を見つけました。生きる目的を見つけたのです。だから、ここを出た今度こそ、よりよい生き方をするチャンスや、もっといろんなことをするチャンスはすぐそこにきているように思えるのです」
『〈生きる意味〉を求めて』(V・E・フランクル[著]、諸富祥彦 [監訳] 春秋社)p54
希望に満ちる言葉です。
囚人フランクは、縦軸の「絶望と意味」の価値観を手にしポジションを変えることに成功しました。そのエリアは、失敗しながらも「生きる意味」を感じられる場所です。その場所は「再出発の地」ともいえ、そこから人は、「意味のある成功」のエリアへと旅立っていくことができるのです。
生きる意味があるかないかと、悩まなくていい
フロイトやユングの理論・思想は偉大ですが、その原書を読んで、専門家は別として、一般の人が癒されることは、まずないでしょう。専門用語が多く、理解するのに疲れます。
これに対して、フランクルは書籍を通して、世界中の人々を癒すことに成功しました。そのため、フランクル心理学は「読書療法」に適しているといわれます。
絶望し「死にたい」と思っていた人が、フランクルの本を読み、「もう少し生きてみよう」と思ったら、心理療法として効果があったということです。フランクルの本には、人に希望を与える作用が確かにあるのです。
フランクルの本が今も世界中で出版され続けている事実が、フランクル心理学の効能を証明しているといえます。
フランクル心理学の効能として有名な「価値観のコペルニクス的転回」を起こす考え方があります。
「コペルニクス的転回」とは、コペルニクスが提唱した「地動説」(太陽を中心にして地球が太陽の周りを回っている)によって、それまで信じられていた「天動説」(地球を中心にして他の天体が地球の周りを回っている)がひっくり返ったように、物事の見方が180度、変わることです。
次に、そのコペルニクス的転回を起こす、フランクル心理学の考え方にふれていきます。
私たち人間は、絶望的な状況に突き落とされると「生きる気力」を失います。「もう死んでしまいたい」と考えます。それは「生きる意味」を見失ったとても苦しく辛い状態です。
「見失った」というのは、「あるもの」が見えなくなったということです。例えば、野球で守備をしている選手が「ボールを見失った」といった時に、ボールが消えたわけではありません。ボールは存在し続けています。
それと同じように、見失ったのであれば、「生きる意味」は消えたわけではなく、どこかにあるのです。どこかにあるのですから、探せば発見することが可能です。すると、こういえます。
どんな絶望的な状況でも「生きる意味」はあり、私たちに発見されるのを待っている。
「こんな死にたくなる辛い状況で、生きる意味なんかあるものか」
そう悲観的・否定的に決めつけてしまったら未来の可能性は閉ざされて、「生きる意味」を発見することは難しくなるでしょう。そこで、フランクルは未来の可能性を開くために楽観的になることを大切にしました。
「生きる意味は今、見えなくなっているだけで、生きていれば、必ずまた見つけることができる」
そんな楽観的な姿勢をもった人生観を、フランクルは次のようにいいました。
発見的楽観主義
(Heuristic Optimism)
発見的(Heuristic)とは、頭の中だけで論理的に答えを考え出す「机上の空論」ではなく、実際に、試行錯誤を繰り返し直観も使いながら答えを導くことです。
ここでいう試行錯誤とは「生きること」そのものですね。
絶望的な状況にあっても、「生きていれば、必ず、意味は発見できるよ」と楽観的に考えることが、「発見的楽観主義」です。
フランクルにとって「人生に生きる意味のあること」は、前提条件です。つまり、どんな時にも「生きる意味はある」と考えるのがフランクル心理学です。
ですので、フランクルは、「死にたい」と悩み苦しんでいる時に、「こんな人生、生きていて意味があるのか」と問う必要はない、といいます。どれだけ問いかけても「生きる意味」の答えは返ってくることはなく、「むなしさ」は募るばかりになってしまいます。
では、どう考えろというのでしょうか。フランクルは、私たちをこう諭します。
「ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ何を期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。そのことをわれわれは学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである」
『夜と霧』(V・E・フランクル[著] 霜山徳爾[訳] みすず書房)p183
「生きる意味があるかないか」と問うことは、人間が、「人生に対して何かを期待すること」です。
家族のことであったり、仕事のことであったり、お金のことであったり、恋愛のことであったり…絶望的な状況で、何かを期待することは、もちろん当然なことです。
でも、その考え方は、先ほどの図の水平軸の話しであって、成功と失敗の2軸の人生観だけでは心の健やかさを保つことは難しくなります。
なぜなら、「死にたい」と思うほどの状況は、自分の力だけで変えられないことが多く、成功と言われる状況をすぐに実現することは難しいからです。
すると、「死にたい」気持ちから抜け出せなくなります。
フランクルはナチス強制収容所に入れられました。どれだけ「解放してくれ」と頼んでも、それはすぐに叶わない願いです。そこでフランクルは、絶望的な状況を受け入れ、人生が期待していることを行い「生きる意味」を見出していったのです。
震災で最愛の人を失ったり、会社が倒産したり、リストラされてしまったりした場合、その状況をすぐに簡単に元に戻すことはできません。絶望的状況とは、人生から期待できることが少なくなっている状態です。
そこで大切なことは、「生きる意味」「生きがい」を実感し、「生きる力」をもう一度、取り戻すことです。
「それでも生きる意味はある」と言えるようになるには、人生が自分に期待していることを見つけ出し、それを行うのです。そうすれば、自然と「生きる意味」が満ちてきます。
変えられないことは受け入れ、変えられることにベストを尽くす。
人生は私たちに期待しつづけています。
あきらめてしまうのは、人間のほうです。そこで、こういうことができます。
人間がどれだけ人生に絶望しても、決して人生は人間に絶望しない
東日本大震災で、数多くの人が家族や家や仕事を失いました。絶望の谷に突き落とされました。それは神戸、熊本の震災の時も同じであり、自然災害の多い日本では毎年必ずどこかで起きていることです。
自然災害だけなく、コロナ禍もそうです。
自分の意志とは無関係の大きな力によって人生を狂わされてしまうことがあります。すると、生きる気力を失い、自暴自棄になってしまう人もいます。
「もう、人生に何も期待できない」と…。
ですが、同じ苦しい状況にありながら、人生の再起を誓って、自分のお店や会社を建て直し、「亡くなった家族のぶんまで幸せになるのだ」と、力強く生きていく人たちがいるのも事実です。
悲劇や苦境を偉大な勝利に変えていった人たちが実際に存在している限り、人生に期待することが何もないように思える「死にたくなる」絶望的状況でも、人生が私たちに何かを期待していることは確かな事実です。
その確かな事実は、私たちが「死にたくなる絶望」から立ち直れることを証明しています。
人生に絶望するのは、いつも人間のほうであって、人生は私たちに決して絶望しません。
人生は私たちに期待し続けています。その期待されていること考え出し、それを無我夢中で行っていけば「生きる意味」を再発見することができます。
私たちは、どんな時にも「生きる意味」をもつ人生から期待され続ける価値ある存在。
フランクル心理学は、人間や人生の可能性、その価値を徹底的に肯定する考えに基づいています。
フランクルの本から希望や生きる力を見出すことができるのは、その肯定的なメッセージを、私たちが意識的にも無意識的にも感じ取ることができるからでしょう。
辛く苦しい時ほど、人生から何かを期待されているのだと理解できれば、「生きる力」がわいてきます。
どんな時にも人生には意味があります。
人生があなたに期待しているからです。
あなたは、この世界を生きる価値ある存在。
自分をあきらめないでください。希望は必ずあります。
(文:松山 淳)
【参考文献】
『夜と霧』(V・E・フランクル[著] 霜山徳爾[訳] みすず書房)
『〈生きる意味〉を求めて』(V・E・フランクル[著]、諸富祥彦 [監訳] 春秋社)