「傍観者効果」(Bystander effect)とは、緊急事態に直面した時に、ひとりでいる時よりも集団でいる時のほうが、事態に対処する行動が抑制される現象のことである。1964年にニューヨークで発生した殺人事件「キティ・ジェノヴィーズ事件」をきっかけに生まれた概念である。アメリカの社会心理学者ビブ・ラタネ(Bibb Latané)が、実験を重ね「傍観者効果」の理論を発展させた。ラタネの実験を中心に「傍観者効果」について解説する。
目次
人の命に関わる事件に遭遇した時、あなたはどうするでしょうか。被害者を助けようと行動を起こすでしょうか。それとも黙って見ているでしょうか。はたまた、関係がないふりをして、その場からこっそりと立ち去るでしょうか。
事件に直面した時に、人がとる行動は実に様々です。
社会心理学者ビブ・ラタネとジョン・ダーリーの共著『冷淡な傍観者 思いやりの社会心理学』(ブレーン出版)に、次のような事件が紹介されています。
1964年3月13日、アメリカニューヨークで、発生した殺人事件です。
午前3時、仕事から帰る途中のキティ・ジェノヴィーズを待ち伏せしていたのは一人の変質者であった。そのキュー・ガーディンの住人の38人もが彼女の悲鳴を聞きつけて窓から顔を出した。が、彼女を助けに駆けつけた人間は一人もいなかった。加害者が彼女を殺すまでに30分もあったというのに、誰一人、警察に電話した者さえいなかったのだ。彼女は死んだ。
当時の報道では、「多くの人が悲鳴を聞き、緊急事態が発生していると知りながら、何もしなかった」とされていていました。
しかし、この事件の真相を究明しようとした2015年公開の『38人の沈黙する目撃者/The Witness』(監督ジェームズ・ソロモン)で、実は、警察に通報した人の存在が、明らかにされています。
この事実は、後世になって初めて明らかにされたことで、事件直後は、目撃者たちの「無関心・無責任」に焦点が当たり、「なぜ、事件現場に居合わせた人たちが、ただの傍観者となってしまったのか?」、その理由について、様々な分析がなされました。
その結果、事件など、緊急事態に居合わせる人が、より多く存在している時、何らかの介入行動を起こす確率が低くなる「傍観者効果」(Bystander effect)という概念が生まれました。
「傍観者効果」(Bystander effect)とは、個人より集団いる時の方が発生しやすく、集団の人数が多いほど生まれやすくなります。
こうした「目撃者たちの無関心さ、無責任さ」があらわになる事件は他にもあり、ラタネたち研究者は、実験を行い事件の「傍観者」となる心理を明らかにしようとしました。
日本にも、かつて「東京砂漠」という言葉がありました。「都会人の冷たさ」は、今でも批判されたり皮肉られたりします。「都会の人より田舎の人のほうが、心が温かくて優しい」。こうした漠然とした都会人に対するマイメス・イメージは、日本でもアメリカでも共通しているようです。
ですが、ラタネたちは、「傍観者効果」が発生する原因を「都会人の冷淡さ」とは考えませんでした。ラタネの仮説は、次のようなものです。
緊急事態発生にあたって、居合わせた人々がどんな行動をとるかは、彼らが何人ぐらいるか、その数に左右されることが非常に多いのだが、それは多ければ多いほど、人が動きやすいはずだという一般の解釈とはどうも逆なようだからである。
『冷淡な傍観者 思いやりの社会心理学』(ビブ・ラタネほか ブレーン出版)p63-64
むしろ実際には、そうした極めて明白と思われる一般の受け取り方とは正反対なのである。
他人の存在は、人助けしようとする衝動を抑制する働きがある。傍観者の各々が他の人たちもいることに気づいていると、彼らの、事態発生やその緊急性についての認識は鈍り、また、たとえ緊急事態と判断しても、行動に移ることを敬遠するようになる。
「他人の存在は、人助けしようとする衝動を抑制する働きがある。」
つまり、目撃者が「冷たい人」だから「ただの傍観者」になってしまうのではなく、事件に居合わせている人が、他にもいると認識され、そして、その「他人」から何らかの影響を受けることで「ただの傍観者」が生まれる…とラタネは考えたのです。
「傍観者効果」が発生して、何も行動を起こさない人々(集団)を、ラタネは「衆愚」(pluraistic ignorance)と表現しています。
ラタネは、緊急事態にも関わらず、「衆愚」(pluraistic ignorance)が生まれる原因が、「他人」にあることを証明しようとして、様々な実験を行っています。
どんな実験を行なったのかが、『冷淡な傍観者 思いやりの社会心理学』(ビブ・ラタネほか ブレーン出版)にまとめられています。
ある部屋にいて、壁にある通気口から、突然、煙が出てきました。あなたは、その時、どうしますか。「ひとり」だったらどうでしょう。「他人」が一緒にいたら、どうするでしょう。「ひとり」と「集団」では、差が出るのでしょうか。
「社会心理学の実験」というと、なんだか高尚な感じがしますが、簡単に言えば「ドッキリ」を仕掛けるわけです。「仕掛け人」たちが、研究者や「サクラ」を演じる人たちですね。「仕掛けられる人」「だまされる人」が「被験者」です。テレビで「ドッキリ」は、定番のネタで昔から変わらず存在しています。今ですとTBS『モニタリング』が有名ですね。
さて、話しを社会心理学の実験に戻しましょう。この実験論文の発表は1968年です。
実験はコロンビア大学の学生を対象にして行われました。在校生のリストから電話をかけ、「都会生活の諸問題についてインタビューを受けてもらいたい」と依頼しました。この依頼に承諾した人(被験者=だまされる人)が、大学のある待合室に来ます。
パターンは3つです。
①被験者1人:ドッキリを仕掛けられる人が、部屋にひとりだけの状況。
②被験者1人とサクラが2人:ドッキリを仕掛けられる人は1人で、仕掛け人側の人間「サクラ」が、2人
③被験者3人:ドッキリを仕掛けられる人が3人の状況。
待合室に「だまされる学生」がやって来ます。席が用意されていて、インタビューの時間まで、簡単な質問用紙に書き込むことになっています。しばらくすると、部屋の通風口から煙が入ってきます。
煙が出てくるのですから、「火事か!?」と疑いを持つのが、一般的な仮説です。「火事だ」と判断しなくても、異常な事態だと思えば、何らかの行動を起こすはずです。部屋を出て避難しようとしたり、「あの部屋で煙が出ています」と、誰かに異常を知らせたりするはずです。
ちなみに、「②被験者1人とサクラが2人」の条件では、仕掛け人(サクラ)は、煙に気づきはするものの、知らないふりをするように指示されています。煙が出てきても、決して逃げず、座り続けているのです。
この緊急事態に直面する時、「ひとり」と「みんな」(集団)では、行動に差が出るのでしょうか。もし、「ひとり」より「他人」と一緒にいた時に、行動する人が少なかったら、その原因は「他人」にあると考えてよいでしょう。
結果は明白でした。「①被験者1人」の条件で、煙の異常を誰かに報告しようとして行動を起こす人が最も多かったのです。「他人」が一緒だと、「ただの傍観者」になる確率が高くなりました。
条件 | 被験者数 | 報告した者 | 報告しなかった者 |
一人きり | 24 | 18 | 6 |
二人の消極的なさくら | 10 | 1 | 9 |
『冷淡な傍観者』(ブレーン出版)p78 表8を元に作成
一人きりの時に、24人中18人が行動を起こしました。ですが、他人=「さくら」がいると10人中1人しか行動しませんでした。
では、③被験者3人の場合、つまり「だまされる人が3人」のケースではどうなったのでしょう。実験は8グループに対して行われました。8グループですので、「だまされる人」は、8グルプ×3人=24人です。ラタネは、こう書いています。
この八グループ、すなわち二四人のうち、最初の四分以内に、室内が煙でそれとわかるほど居心地悪くなる以前に報告したのは一人だけであり、実験打ち切りまでに報告したのは三人にすぎなかった。
『冷淡な傍観者 思いやりの社会心理学』(ビブ・ラタネほか ブレーン出版)p79
「③被験者3人」のケースでも、行動を起こす人は少ない結果になりました。
「人が増えれば、行動を起こす人は多くなるのでは…」。そう考えがちですが、結果は、逆でした。24人もの「だまされる人」(被験者)が試されましたが、最終的に行動したのは3人だけでした。
「個人」(ひとり)と「集団」(みんな)で、明らかに差が出ています。
では、実験を受けた「だまされた人たち」は、どう考えていたのでしょう。「行動した人」と「行動しなかった人」(傍観者)との差は何でしょうか。
行動を起こした人は、煙の出ている状況を「異様」だと表現しました。つまり、自分の置かれた状況が「緊急事態」だと認識していたことになります。この認識が大きなポイントです。
「火事かどうかはっきりしなかったんですが、何かおかしいと思いまして」「蒸気かとも思ったんですが、とにかく、チェックしてみるべきだと考えたものですから」
では、何も行動を起こさなった人は、どう考えていたのでしょう。
煙が何の煙なのかに対する解釈は、様々でした。冷房装置の水蒸気だと考えたものもいれば、都会的な環境をつくり出す演出のひとつだと考えた人もいました。共通していたのは「火事ではない」「危険なものではない」という認識です。
つまり、行動を起こさなかった人たちは、煙には気づいているけれど、「緊急事態だ!」と判断していないのです。
「緊急事態」と認識するか否か。現代風に言えば「なんてことないでしょっ!」と思うか、「これ、まじでヤバイよ!」と考えるかです。この判断の違いが「ただの傍観者」になるか否かの分かれ道といえます。
では、なぜ、「ひとり」でいる時より、「みんな」でいる時の方が、「なんてことないでしょっ!」と、楽観的になるのでしょう。
結局のところ、その場いた他人の反応に合わせてしまうことが、ひとつの原因です。
「②被験者1人とサクラが2人」のケースで、サクラは煙に気づきはしますが、慌てたり、騒いだりしません。その様子を見たら、煙が出てきた時に「何だあれ、おかしいな」と思っても、「一緒にいる2人も、別に騒いでないし、大丈夫なんだろう」と、判断を修正してしまう確率が高まります。
実験が終わって「煙」について質問された時に、「火事ではない」「危険なものではない」という認識は、他人に影響された後づけの判断である可能性が高いのです。
「他人の存在が自分の判断に影響されていたか」と質問すると、多くの「だまされた人」は、「影響を受けていない」と答えます。
この「他人の存在からの影響は、ない」と答える傾向は、ラタネたちが行った他の実験でも共通していました。
しかし、「煙」や「怪我人の発生」や「子どもが隣の部屋で喧嘩をしている」など、様々な「緊急事態」を発生させて実験を行なった結果、「ひとり」だと行動を起こす人が多く、複数の人がその場に居合わせると、行動を起こす人が少なくなることは、明白に差が出ました。
「集団」になると「ただの傍観者」の数が増える。
これはラタネたちが行なった実験で繰り返し確認されたことです。ですので、被験者が実験の後に話す「他人の存在からの影響は、ない」という言葉は、事態に対処しようと、行動を起こさなかったことに対して、無意識のレベルで罪悪感があり、それに対する自己弁護、自己正当化の心理が働いたのではないかと考えられるのです。
ラタネは、「傍観者効果」の発生要因を、①「他人からの影響」と②「責任の分散」として、2つの観点を指摘しています。
①「他人からの影響」
この①「他人からの影響」は、さらに次の通り、2つに分類できます。
1)「他人に見られていることの効果」
2)「他人を見ることの効果」
1)「他人に見られていることの効果」
例えば、街中で「喧嘩」に遭遇したとします。2人の若者がつかみあっていて、周囲に人だかりができています。見ているばかりで、誰も止めに入ろうとしません。目撃者はたくさんいて、まさに「傍観者効果」が発生している状況です。
あなたは「止めに入ろう」と決意しました。しかし、次に、こんな考えが脳裏をよぎります。
「でも、もし、止めに入った結果、事態を余計に悪化させてしまうかも。そしたら、これだけ人がいるから、笑い者になるかな、恥をかくかな」
そう思ったら、止めに入る勢いが削がれてしまいました。
だとしたら、これは「他人に見られる」状況であるために、「止めに入ろう」という行動が抑制されたことを意味します。
いわゆる「他人の目が気になって動けない」状態ですね。これが、「他人に見られる」ことによって発生する「傍観者効果」です。
2)「他人を見ていることの効果」
喧嘩の場面には、たくさんの「野次馬」(傍観者)がいました。多くの人が見ているのに、誰も止めに入りません。喧嘩をしているふたりも気になりますが、周りの人たち(野次馬=傍観者)の様子も気になります。そして、こう判断します。
こんなにたくさんの人がいて、誰も止めに入らないのだから、自分ひとりが止めに入らなくても、別に問題はないでしょ。
もし、そう判断したとしたら、その判断の根拠は「他人の様子・行動」にあるわけで、「他人を見ていること」によって、自身の判断が成立したことになります。そうして「傍観者」が、また、ひとり増えるのです。
これが、2)「他人を見ていることの効果」です。
1)「他人に見られていることの効果」にしろ、2)「他人を見ることの効果」にしろ、「他人の存在」が、何らかの影響を与えています。その結果、認知が修正されて、行動を起こさなくもよい理由が正当化されるのです。
「自分ひとりが止めに入らなくても、別に問題はないでしょ」と…。
②「責任の分散」
緊急事態に遭遇した時に、行動を起こした人たちは、「そうすべき」と判断しています。つまり、その状況に対して「自分に責任がある」と感じているのです。反対に「別に責任はない」と判断したら、行動することはないでしょう。
事件に遭遇し、傍観者の数が増えれば増えるほど、「他の誰かが警察に通報しているだろう」「誰かが助けてくれるはずだ」と、憶測の幅が広がります。
ジェノヴィーズ事件は都会の街中で起きました。自分以外にも「たくさんの人がいる」のは、当たり前すぎる事実です。だとしたら、「自分がしなくても、他の人がしてくれるだろう」と考える「責任の分散」が起きた可能性があります。
「責任の分散」について、ラタネは、こう書いています。
緊急事態に際して、傍観者が一人だけであれば、その傍観者が事態の処理の全責任を負わされる。何もしなければ彼が心の重荷のすべてを背負うし、不介入の結果生ずる非難のすべてを一手に引き受けなくてはならない。一方、ほかにも傍観者があれば、責任の重荷は分散され、自分が後指をさされる可能性も小さくなる。こうして介入と不介入との間の葛藤が他人の存在のために不介入の方向に解決される可能性が増す。
『冷淡な傍観者 思いやりの社会心理学』(ブレーン出版)p140
「傍観者効果」は「集団心理」のひとつです。
人は「ひとり」(個人)でいる時に、正しい行動を取れても、「集団」になると、時として愚かな判断をし、愚かな行動を起こしてしまいます。
この「傍観者効果」は、集団心理のマイナスの側面です。集団になった時に、「ただの傍観者」が生まれる可能性は高まりますが、現実の世界で全てがそうだとはいえません。このことは強調しておかなければなりませんね。
2020年8月20日、イギリスのドーセット州ダードル・ドアのビーチで、男性が沖に流されました。
この時、見知らぬ人たちが力を合わせて「人間ロープ」をつくり、救助に成功しているのです。これは「傍観者効果」とは、反対のプラスの効果が発生した事例です。
2013年7月22日の南浦和駅での救出劇も、集団心理のプラスの側面です。電車とホームの間に挟まれた女性を、その場に居合わせた人たち(約40人)が、力を合わせて電車を傾けて、救出しました。
緊急事態に遭遇した人たちは、「ただの傍観者」とはならなかったのです。
社会において「傍観者効果」が発生するからといって、「人間は冷たいものだ」と結論づけることはできません。様々な心理要素や条件が重なって、「傍観者」は発生しているのです。
ラタネも、社会心理学者として、著書『冷淡な傍観者 思いやりの社会心理学』(ブレーン出版)の中で、そのことを繰り返しています。
イギリス・ビーチでの救出劇。南浦和駅の偉業。
現実に、集団だからこそ成し遂げられる、偉大な業績もあります。集団心理のプラスとマイナス、双方の側面を考慮しながら「傍観者効果」についても考えていきましょう。
(文 松山淳)