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「真・善・美」を指針に生きる

コラム68「真・善・美」を指針に生きる

「善」「美」に隠れている動物は?

 「善」「美」

 この2つの漢字の中に、ある動物が隠れています。それは何でしょうか?

 答えは「羊」です。

 「善」「美」は、人間の本質的な価値を表す漢字ですね。漢字研究の第一人者「白川静夫」氏は、「善」「美」に「羊」が入っている理由について、漢字の原型ができた頃に『神事に「羊」を用いていたから』と説明しています。「義」という漢字もそのひとつです。

 古代中国において「羊」は貴重な食料源でした。「羊」を食べることで、人は生きることができました。「羊」と密接な関係にあった古代中国人は、「羊」を神聖視し、神への捧げ物にしていたようです。

 古代の人たちは、「善」「美」に神聖な「羊」を入れることで、人間が神に接する時のような純粋な一面を表現しようとしていたのでしょう。


真・善・美について

 「善」「美」とくると、自然と「真・善・美」という言葉が思い出されます。京セラ創業者「稲盛和夫」氏の著『生き方』(サンマーク出版)にて、稲盛さんは、人間の心の多重構造を5つに分類したうえで「真・善・美」について、説明しています。

 まず、稲盛さんが考える5つの多重構造ですが、それは次のものです。

心の5つの構造

  1. 知性:後天的に身につけた知識や論理
  2. 感性:五感や感情などの精神作用をつかさどる心
  3. 本能:肉体を維持するための欲望など
  4. 魂 :真我が現世での経験や業をまとったもの
  5. 真我:心の中心にあって核をなすもの。真・善・美に満ちている。

『生き方』(稲盛和夫 サンマーク出版)p232

 私たち人間は、日頃、食べる・寝るなど「本能」から生まれる「欲求」に突き動かされています。食べたり寝たりしなければ、命(生存)に関わります。ですので本能的な欲求を心理学では「生存欲求」と呼ぶこともあります。

まっつん
まっつん

 でも人間は、他の動物と違い、高度に脳を発達させているため、「生存欲求」だけに動かされるわけではありませんね。本能のままに、ただ動物的に生きるのはなく、「知性」「感性」を備えているために、「人らしさ」を発揮しようとします。

 では、その「人らしさ」の源はどこにあるのでしょうか。その答えが稲盛さん曰く、「真・善・美」に満ちた「真我」です。

 稲盛さんは、「真・善・美」と「真我」について、こう書いています。 

稲盛和夫
稲盛和夫

「人間は真・善・美にあこがれずにはいられない存在ですが、それは、心のまん中にその真・善・美そのものを備えた、すばらしい真我があるからにほかなりません。あらかじめ心の中に備えられているものであるから、私たちはそれを求めてやまないのです。」

『生き方』(稲盛和夫 サンマーク出版) p234

 人は、さまざまなことに「感動」し、時に涙を流します。「真の芸術」や「見返りを求めない人の善行」や「美しい自然」など・・・。

「真・善・美」にふれると、人は感動する

 「真・善・美」にふれると、人は胸をうたれます。感動します。この世界にあふれる「真・善・美」と、心の中核にある「真・善・美」に満ちた「真我」とは、響きあう仕組みになっているかのようです。

 感動的な体験は心に刻印され、人の生き方をがらりと変えてしまうことがあります。「真我」にふれる体験は、それほど大きな力をもつのです。

 しかし、日常の生活を振り返ってみると、どうなのでしょう。「真・善・美」は、キレイごとに過ぎない感じがします。「真善美を本当に人は求めているのだろうか?」と、疑問が湧いてきます。

 現実は不条理で、「怒り」「憎しみ」「嫉妬」など、人間の醜い側面にふれることのほうが、日常ではよくあることです。「真・善・美」を「生きる指針」とすることは、現実的でなく「嘘っぽい」気がします。

この厳しい世の中、正直なところ、真善美なんて甘っちょろいこと、言ってられない

 それが多くの人の本音ではないでしょうか。

 でも「真・善・美」にふれた感動体験が、何ものにも代えがたい「人生の財産」になるのも真実です。その財産は、辛い状況になればなるほど、「生きる意味」となって人の生に力を与えるのです。 


フランクル心理学の「真・善・美」

 心理学者V・E・フランクルは、人生で起きるさまざまな感動的な体験には、「生きる意味」を満たす価値があるとして、それを「体験価値」と呼び、提唱しました。フランクルは、地獄の惨劇である「ナチスの強制収容所」を生き延びた人です。

 フランクルは『それでも人生にイエスを言う』(春秋社 山田邦男 訳)の中に、こんな言葉を記しています。

フランクル
フランクル

「人生が出す具体的な問いに責任をもって応答するなら、人生を意味あるものにできるのは活動によってだけではありません。行動する存在としてだけでなく、愛する存在としても、美しいものや、偉大なもの、善いものを愛しそれに身をささげることによって、人生のさまざまな要求を満たすことができるのです。」

『それでも人生にイエスを言う』(春秋社 山田邦男 訳)p35

 地獄の収容所生活で、囚人となった多くの無実の人々が、美しい自然の風景や人間の模範的な善なる行為によって、心を救われたのです。フランクルは、それを実際に体験しました。

 彼は、独自の心理学「ロゴセラピー」を考案した人物です。その骨子は、彼が20代の頃には考え出されていました。フランクルは、人生の意味で満たす3つの価値「創造価値」「体験価値」「態度価値」を提唱しています。それも収容所に収監される前に、すでにあったコンセプトです。

 ですので、フランクルは、自分の心理学で自分を励まし、地獄の収容所を生き延びたといえるのです。彼は囚人仲間にも、ロゴセラピーの考えを説き、多くの人々に「生きる力」を与え、命を救っています。

 そう考えると、「真・善・美」という考えは、非現実的で「嘘っぽい」というより、むしろ、不条理なこの世界だからこそ、逆に、現実的で確かに私たちの心に力を与えるものなのです。


「真・善・美」で迷いをふっきる

 「真・善・美」にふれる「体験価値」とは、世界の絶景を見にいくような大げさなことではありません。

通勤・通学路に咲く名の知らぬ花を愛でること
部下に「ありがとう」と、心を込めた感謝の言葉を贈ること
コンビニのレジに置いてある募金箱に10円玉を入れること

 そんな日々のささやかな行いと、そこから生まれる「感動」が、私たちの人生に意味を与え、心に潤いをもたらすのです。

 なぜなら、私たちの心の汚れのない最もピュアな「真我」が、それを求めているからです。

 人生に迷った時、「真・善・美」を指針することで、迷いをふっきれることがあります。

 松下幸之助さん亡き後、「生きる経営の神様」と呼ばれる稲盛和夫さんは、若い日、経営者(リーダー)として悩んだ時に、「人間として正しいこと」というシンプルな基準で意思決定をしていきました。まさに「真・善・美」を経営の指針にしたといえます。

 最後に、その判断基準にまつわる稲盛さんの言葉を記し、このコラムを終えます。

稲盛和夫
稲盛和夫

「きわめて初歩的な倫理観を判断の基準にすることにした。つまり、人間としての原点に立ち返り、「人間として正しいことなのか、正しくないことなのか」「善いことなのか、悪いことなのか」ということを基準として、ものごとを判断していくようにしたのだ。

 言い換えれば、正義、公正、勇気、誠意、謙虚、さらには愛情など、人間として守るべき基本的な価値観を尊重して判断するようにした。

『人生と経営』(稲盛和夫 致知出版社) p53-54

(文:松山 淳)(イラスト:IWOZON-イヲゾン


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