「悟り」とは、宗教的な修行を重ねた末に得られる特殊な覚醒体験を通して、人生に迷いがなくなる境地である。「悟りを開く」「悟りの境地に達する」という。心理学的に考えると、「悟り」とは「意識の変容」を意味する。
C.G.ユングの著『東洋的瞑想の心理学』(創元社)がある。東洋思想・宗教に関するユングの論文をまとめた本であり、「悟り」についても考察している。ユング心理学(分析心理学)を確立していくプロセスにおいて、東洋思想との出会いは、ユングにとってターニングポイントとなっている。
無意識に関する意見の相違から、ユングは「師」といえたフロイトと訣別することになる。その後ユングは、方向喪失の状態となり精神的危機に陥る。この時期、ユングは「曼荼羅(マンダラ)のような絵」を描いていた。また、患者の中にも「曼荼羅のような絵」を描いて持ってくる人がいた。
ユングは東洋思想の「曼荼羅」を知っていて「曼荼羅のような絵」を描いていたわけではない。不安定になっている自分の心をおさめようとして、自然と、「曼荼羅のような絵」を描いていたのだ。その絵が、東洋の曼荼羅に似ているとわかったのは、『黄金の華の秘密』と題する道教の錬金術に関する論文をみてであった。この論文は、中国在住のドイツ人宣教師リヒアルト・ヴィルヘルムが送ってきたものである。
フロイトという「拠り所」を失い、「新たな拠り所」として期待したグノーシス主義の研究も納得できるレベルではなかった。仕事に行きづまっていたユングは、『黄金の華の秘密』との出会いについて、「これは私の孤独を破った最初のことがらであった。私は類似性に気づき始めた。私は何ものかと、そして誰かと関係を打ち立てることがきでるはずだ」(『ユング自伝1』みすず書房 p280)と自伝に書いている。
「孤独を破った最初のことがら」という言葉から 、ユングにとってどれほどインパクトがあったのかがわかる。
ユングはヴィルヘルムの論文をきっかけに、錬金術の研究に没頭していく。ユング独自の心理学理論を支える「新たな拠り所」を『黄金の華の秘密』の中に見い出したのである。
それ以前に、「ヨガ」や「易」にも興味を持っていたユングは、『黄金の華の秘密』との出会いをきっかけに、西洋思想だけでなく東洋思想の考え方も取り入れながらユング心理学(分析心理学)を打ち立てていく。
そのため「西洋」と「東洋」の出会いは、ユング派の日本人心理療法家にとっても課題といえる。次の3冊は、東洋思想とユング心理学を融合させたユング派の日本人心理療法家による代表的な著作である。
- 『ユング心理学と仏教』(河合隼雄 岩波書店)
- 『悟りの分析』(秋山さと子 PHP研究所)
- 『仏教とユング心理学』(目幸黙僊 J.マーヴィン スピーゲルマン 春秋社)
この3人の著者の中で特に興味を引くのが、目幸黙僊(ミユキ モクセン)氏の存在である。
なぜなら、目幸氏は僧侶(浄土真宗)でありつつ、米国の大学で教えていた宗教学者であり、かつスイスのユング研究所で国際資格をとった心理療法家でもあるからだ。「東洋」と「西洋」の出会いの体現者が、目幸氏である。ちなみに、秋山さと子氏も禅寺の育ちである。
目幸氏は、『仏教とユング心理学』(春秋社)において、「悟りの本質的な特徴は、自我の超越や自我の否定にあるのではなく、むしろ、自我が無意識の内容を統合するための絶え間ない努力を行うことを求める一生を賭けたプロセスにあるのである」(p75)と書いている。
「悟り」を「一生を賭けたプロセス」とらえ、「自我が無意識の内容を統合する」こと、つまりユング心理学のキーコンセプトである「個性化の過程」と重ね合わせている。「個性化」(individuation)とは、『その人がなりうる〝本来の自分〟になっていくこと』だ。
冒頭書いた通り、「悟り」といえば、「宗教的な何らかの修行を重ねた末に得られる特殊な覚醒体験」を想像する。神秘的、超常的、急激的な「覚醒体験」が「悟り」だ。すると、宗教を信仰せず、修行に取り組まない人々にとって、「悟り」は縁遠いものだ。しかし「個性化の過程」というユング心理学の視点から眺めていくと、その縁遠さが、やや身近なものとなってくる。
目幸黙僊氏の考え方を軸に、ユング心理学の知識もおりまぜながら「悟りのこころ」について考えていく。
目次
「悟り」とは何か?
「悟り」とは本来、仏教の言葉です。でも、現在の日本においては、仏教だけに限らず、ヨガや精神世界やスピリチュアルの領域においても、「悟り」という言葉は使われます。いずれにしても、通常の意識を超越する「覚醒体験」ととらえることは、共通しています。
では「悟り」とは、いったいどんな体験なのでしょうか。。「悟る」ことで、どんな変化が起きるのでしょうか。それを知るためには、実際に「悟り体験」をした人から話を聞くか、「悟り体験」をした人の記録にあたるに限ります。
大乗仏教における「悟り体験」をまとめた本に『「悟り体験」を読む』(大竹晋 新潮社)があります。大竹先生は仏教研究者です。「悟り体験」の記された中国古典から近現代までの書を網羅して「悟り」の本質に迫っています。
仏教の悟り体験には、「頓悟」(とんご)と「漸悟」(ぜんご)があります。「頓悟」は、ある日、ある時、突然、「悟りの境地」に達することです。急激な変化を伴う覚醒体験が「頓悟」です。これに対して「漸悟」は、時間をかけて、だんだんと「悟りの境地」に至ることです。
一般的に私たちが抱く「悟り」に対するイメージは、「頓悟」のほうでしょう。突然、「わからなかったものが、わかる」「明らかでなかったものが、明らかにされる」。そんな覚醒体験です。
「頓悟」があっても、もちろん終わりではなく、宗教家たちの修行は「悟った」後も続きます。
「頓悟」がいくつか起きて、さらに深い「悟り」に至る例もあります。「小悟」(小さな悟り)と「大悟」(大きな悟り)という言葉があります。「頓悟」が「小悟」の時もあり、「小悟」を積み重ねて段階的に「大悟」を得たとしたら、そのプロセス全体は「漸悟」だったといえます。
目幸氏が「悟り」を「一生を賭けたプロセス」と書いているのは、「頓悟」と「漸悟」でいえば「漸悟」のほうだといえます。
『「悟り体験」を読む』(新潮社)には、「頓悟」と「漸悟」のいずれもの例が掲載されています。大竹先生は、数多くの悟りに関する文献を読み漁り、「悟り体験」を5つの共通の枠組みに整理しています。それが次の5つです。
❶自他忘失体験
自他忘失体験とは、自分と他者との隔たりがなくなり、「ただ心」だけになる状態です。「精神世界」の概念ですと、「非二元」(ノンディアリティ)、「一元」(ワンネス)の体験といえるものです。人に強いインパクトを与える体験ですが、禅宗の臨済宗では「悟り」(見性:けんしょう)とはされない段階です。
以下、個人名は、『「悟り体験」を読む』(新潮社)に登場する悟り体験をした「覚者」たちの名前です。
- 倉田百三「宇宙と自己がとが一つになつているのを覚証した。其処(そこ)には天地と彼我とは端的に一枚であった」(p218)
- 抜隊得勝「みだりな想いが尽きて胸中に一つの物もなく、内側〔である自己〕と外側〔である他者〕との隔てがなくなることは、晴れわたった大空のようであって、全方向にわたってすっきりしている」(p219)
❷真如顕現体験
真如顕現体験とは、「自我の殻」が破られ「真如」を知る体験です。「真如」とは、この世界の様々な枠組みに「我(確かな自分)がない」ことです。つまり、「真如」を知るとは、仏教が重視する「空性」(からっぼさ)を知ることです。禅宗の臨済宗では、真如顕現体験をもって「悟り」(見性)とされます。
- 山田無文「わたくしの心は忽然として開けた。無は爆発して、妙有の世界が現前したではないか」(p222)
- 江部鴨村「そのとき俄然、私は、無限と有限と一体の実感を得た」(p222)
❸自我解消体験
自我解消体験とは、私たちが日常で「自分」と考える「いつもの意識(自分)」=「自我の殻」が解消される体験のことです。「いつもの意識(自分)」が解消されて、「自我の殻」にあったものが外に飛び出し拡散される経験もあります。
- 今北洪川「ただ、自分の体内にあった一つの気が、全方向の世界に満ち溢れ、光り輝くこと無量であるのを、知覚するのみだった」(p223)
- 白水敬山「自己の心気力が宇宙に遍満して心身を忘失してしまった」(p223)
- 朝比奈宗源「見るもの聞くもの何もかもきらきら輝いた感じ、そこに生も死もあったものではない」(p224)
❹基層転換体験
基層転換体験とは、「いつもの意識(自分)」が解消されることで、生きている感覚の基礎となっている「心と体」の仕組み(感じ方・認識の仕方)に、パラダイムシフトが起きる体験です。「心の外側にあった全世界がその後は心の内側にあるかのように」(p226)感じられることも起きてきます。
- 菩提逹磨「悟ってからは心が景色を包んでいるが、迷っているうちは心が景色に包まれている」(p226)
- 原青民「心の外側に実在すると思っていたものは、まったく思いがけないことに、心の内側に顕現された対象であったのだ」(p176)
❺叡智獲得体験
叡智獲得体験とは、悟り体験の前では知り得なかった「叡智」を獲得する体験のことです。解けなかった「公案」(師から与えられた悟りを開くための問題)が、たちどころにわかってしまいます。また、理解不能だった宗教的な問題が、わかってしまうこともあります。
- 梶浦逸外「ひとたび見性いたしますと、あとにつづく公案がどんどん解決していきました」(p228)
- 平塚らいてう「神とは何か、自我とは何か、神と人間との関係、個と全体との関係などと、女子大時代に頭の中だけでの、概念の世界で模索していた諸問題が、みんないっしょに解決され、」(p228)
以上、5つの枠組みでの「悟り体験」の例は、あくまで一例であり、各時代を生きた覚者が「悟り体験」に関して、さまざまな表現をしています。あくまで大乗仏教での「悟り」体験です。
「悟り」に近い超越的な「覚醒体験」は、仏教だけでなく、キリスト教(神秘主義)を始めとした西洋の宗教でもいろいろな体験が記録され、報告されています。ヨガや精神世界での「覚者」による「悟り体験」もあります。
ただ、「悟り体験」の中核にある要素は、共通する点が多く、それを『「悟り体験」を読む』(新潮社)では、5つに整理しているわけです。
『「悟り体験」を読む』(新潮社)によると、多くの「悟り体験」をした人(覚者)が、古い時代から伝えられてきた「悟り」に関する叡智は「本当だった」と、驚いています。
「自分と他者との隔たりがなくなり、「ただ心」だけになる」と書かれたのを読んだ時に、「そうなのか」と、頭では理解できます。「頭だけの理解」を真に理解するためには、やはり、実際に自分で体験するしかありません。半信半疑だった知識をリアルな体験を通して理解できた時、そこに自分自身の根幹を変化させる「驚き」が生まれます。
また、多くの覚者が、「悟り」を得られたことに、強い喜びを感じています。大正から昭和にかけて女性解放運動を展開した思想家「平塚らいてい」は、「悟り体験」の喜びを、こう記しています。
「わたくしの場合は半年あまりかかって、徐々に心境が展開し、ついには百八十度の心的革命というか、一大転回を遂げたのでした。これはわたくしにとっては、まさしく第二の誕生でした。(中略)第二のこの誕生は、わたくし自身の努力による、内観を通して、意識の最下層の深みから生まれ出た真実の自分、本当の自分なのでした。
求め、求めていた真の人生の大道の入口が開かれたのです。さすがにうれしさのやり場がなく、わたしはその日、すぐに家に帰る気になれず、足にまかせてどこまでも歩きました」
『「悟り体験」を読む』(大竹晋 新潮社)p128
「悟り」の強く深い喜びを「手の舞ひ、足の踏む所を知らず」と表現することがあります。「平塚らいてい」は、うれしさのあまり1日中歩いたと書いています。まさに「手の舞ひ、足の踏む所を知らず」状態だったのでしょう。
どれほどの喜びなのか。ぜひ、体験してみたいものです。悟りを得た「覚者」たちは、誰もが日々、修行を重ねています。文献を読むだけでは「悟りの体験」はできないので、頭で理解しようとせず、「修行」に励むしかないですね。
「悟り」とは「意識の変容」のこと
「平塚らいてい」の文章に「百八十度の心的革命」とあります。「心的革命」を心理学で考えれば、それは「心が変わる」ことであり「意識の変容」を意味します。「悟り体験」を「百八十度の心的革命」とするなら、「悟り」とは「意識の変容」の特殊なパターンといえます。
「意識の変容」なら、誰もが経験しています。
30代の人が10代の自分をふりかえった時、50代の人が30代の自分を思い浮かべ内省する時、「過去の自分」と「今の自分」を比べて、何らかの「変化」を感じとることができます。その「変化」こそが、長い時間をかけてなされた「意識の変容」です。
人は、「幸せ」を求めながらも、家族のことや、仕事のことや、お金のことや、病気のことや、いろいろなことで「人生の課題」を抱えます。それら「人生の課題」に取り組み、時に喜び、時に苦しみ、悲喜こもごもありながら、長い時間をかけて、人は意識を変容させていきます。
自分で意図して心を「変容させる」のではなく、気づいたら自然と「変容していた」というのが、一般の人にとっての「意識変容」の姿です。宗教家たちの体験する「悟り」=「宗教的な何らかの修行を重ねた末に得られる特殊な覚醒体験」と、普通の人の「意識の変容」とは別ものです。
ただ、日々の生活で苦悩することが、その人にとっての精神的な「修行」となっていて、「悟り」の本質を「心が変わること」=「意識の変容」ととらえるならば、宗教家と一般の人の「悟り」には、重なっている面があります。
「百八十度の心的革命」とまではいかなくても、60度とか90度ほどのゆるやかで段階的な「心的革命」=「意識の変容」を、誰もが、年齢を重ねつつ経験しているものです。
人生は、「わからなかったことがわかるようになる」、その連続です。
子どもの頃にはわからなかったことが、大人になって初めてわかります。親になり苦労して初めて、自分の親の喜び苦しみが深く理解できます。お世話になってきた上司の苦労は、自分が上司になって経験を重ねて初めて、本当の意味でわかるものです。その「わからなかったことがわかるようになる」という経験が、「意識の変容」であり、広い意味での「悟りの体験」といえます。
人生とは、長い時間をかけてなされる「悟りの旅」なのです。
そう考えてくると、「悟り」を「一生の賭けたプロセス」ととらえた、ユング派の目幸先生の言葉が腑に落ちてきます。
「悟りの本質的な特徴は、自我の超越や自我の否定にあるのではなく、むしろ、自我が無意識の内容を統合するための絶え間ない努力を行うことを求める一生を賭けたプロセスにあるのである」『仏教とユング心理学』(春秋社)p75
目幸先生は、「自我の超越や自我の否定にあるのではなく」と書いています。
「悟り」というと、「無我」「没我」という言葉がある通り、「自我」を「無くす」というイメージがあります。それが「自我の超越」「自我の否定」です。ですが、人が生きている限り、「自我」は決して「無くなる」ことはありません。
もし「自我」(ego)が無くなってしまったら、「私(自分)という意識」が無くなり、思考や感情が働くなり、日常生活を送ることが困難になってしまいます。宗教家の人たちでさえ、「悟り体験」をした後も、自我意識を中心として人生は続いていくのです。
そう考えると、悟りのプロセスとは、ユング心理学の観点からみると、「自我が無意識の内容を統合するための絶え間ない努力」といえるのです。
上の一文の前に、目幸先生は「我々は、ユングの概念と方法論を用いる研究によって、禅の悟りを自己実現つまり自己(Self)が自分自身を実現しようとする衝動という用語で心理学的に理解した」と書いています。
ユング心理学で「自己実現」(self-realization)といえば、「個性化」(individuation)のことです。「個性化」(individuation)とは、「その人がなりうる〝本来の自分〟になっていくこと」です。
では、「個性化」(individuation)はどのようにしてなされるのでしょう。その答えが、「自我が無意識の内容を統合するための絶え間ない努力」です。
著書『自我と無意識』(第三文明社)の中で、ユングはこう書いています。
「自らの無意識的な自己を実現する道を歩む者は、必然的に個人的無意識の内容を意識にとりいれ、それによって、人格は大きさを増すのである」
『自我と無意識』(C.G.ユング 第三文明社)p34
上にある「無意識的な自己を実現する道」が、「自己実現」(self-realization)のことであり、「個性化」(individuation)のことといえます。
「悟り」とユング心理学
「自我」や「自己」や「意識」や「無意識」という言葉が出てきて、初めてユング心理学にふれる人だと混乱します。ここで、ユング心理学の基本的な心の全体像についておさえておきましょう。
ユングは、心を「意識」と「無意識」にわけて考えました。
「意識」の中心には、「自我」(ego)があります。「自我」(ego)は、意識の領域を統括している「心の働き」です。
「自我」が働くことで、「私(自分)」という意識が生まれ、何かを考えたり、何かを感じたり、何かを記憶したりできます。「自分が何を考えているか」「自分がどんな感情をもっているか(嬉しいのか、悲しいのか、怒っているのか)」「昨日、何かを食べたのか」を記憶し自覚できるのは、「自我」(ego)があるからです。
「無意識」を、ユングは「個人的無意識」(personal unconscious)と「集合的無意識」(collective unconscious)に分けました。「個人的無意識」には、「意識」の領域から取りり払われ、忘れ去られた「心の要素」が蓄積しています。「集合的無意識」では、「人類に共通する心のパターン」(元型)が、動いています。
「意識」を統括するのが「自我」(ego)ならば、無意識を含めた心全体を統括している「心の働き」を、ユングは「自己」(self)としました。
「自己実現」「個性化」において、心全体の中心にある「自己」(self)の働きがキーになってきます。
「意識」と「無意識」は、相互に作用していて、補償しあう関係にあります。「意識」が偏っていく時、「無意識」が「意識」に働きかけて、心全体のバランスを保とうとします。
ユングは、『ユング 夢分析論』(みすず書房)で、こう書いています。
「こころとは自己調整を行うシステムであり、体という生がそうするのと同じようにしてバランスをとっています。行き過ぎた過程に対しては、それが何であれ直ちに、そして確実に補償が始まります。この補償を抜きにしては、正常な新陳代謝も正常な心もありえません。」
『ユング 夢分析論』(C.G.ユング みすず書房)P6
「心の補償作用」であり「自己調整を行うシステム」の具体例が、夜に見る「夢」です。「夢」は「無意識」から「意識」へ向けたメッセージです。何かに追いかけられる夢を見たり、歯が全部抜けたりする夢を見るのにも、何らかのメッセージがあります。
夢のメッセージをクライエントと共に考え味わっていくのが「夢分析」であり、その結果、人に「意識の変容」が起きてきます。心全体は、「意識」と「無意識」がエネルギーを交換し、お互いに補い合いながら、日々、変化していくのです。
「悟り」を「意識の変容」の特殊なパターンととらえるなら、ユング心理学では、「悟り体験」を、「意識」と「無意識」の相互作用の観点から考えていくことができます。
「悟り」に対するユングの考え
『「悟り体験」を読む』(大竹晋 新潮社)では、「悟りの体験」が5つの観点で整理されていました。「自他忘失体験」「真如顕現体験」「自我解消体験」「基層転換体験」「叡智獲得体験」でした。
「宇宙と自己がとが一つになつているのを覚証した」という「自他忘失体験」だけを考えても、「悟りの体験」とは、通常の意識では想像しにくい、神秘的かつ特殊な「意識の変容」といえます。
ユングの著『東洋的瞑想の心理学』(創元社)に、『禅の瞑想』という論がおさめられています。仏教学者「鈴木大拙」が英文で書いた著書に『禅仏教入門』があります。この著書がドイツ語に翻訳され出版されました。その時、ユングの書いた「序文」が『禅の瞑想』です。「鈴木大拙」といえば、1897年(明治30年)に渡米し、「禅」を世界に広めた人物です。
『禅の瞑想』に、「悟り」について解説している箇所があります。それが次の一文です。
意識がその内容についてできるだけ空っぽになった場合、その内容は、一種の(少なくとも一時的な)無意識の状態になる。禅の瞑想の場合、この転換状態はたいてい、意識のエネルギーがその内容から抜きとられて、「空」の観念か、あるいは公案へと向かうときに生じる。(中略)こうして蓄積されたエネルギーは無意識領域へと向かい、自然にそこに充電されるエネルギー量を極限まで増大させる。
『東洋的瞑想の心理学』(C.G .ユング 創元社)旧版p195
上の文からわかる通り、ユングは、「悟り」を、「意識」と「無意識」、「心のエネルギー」の観点から解説しています。
日々の宗教的修行(坐禅/瞑想など)を通して、「意識」を「空っぽ」にする体験を積み重ねていくと、「無意識」の領域にエネルギーが充電されていきます。その極限まで増大したエネルギーが、何かをきっかけに、「無意識の内容」を伴って、「意識」の領域に、一気に流入していきます。
その状態が、「特殊な覚醒体験」=「悟りの体験」を引き起こすと、ユングは考えました。
ユングは「長い年月にわたる禅の瞑想ときびしい修行によって、悟性の合理的なはたらきを消滅させる努力を重ねるとき、本性そのものがひとつの ── 唯一の正しい ── 答えを出すのである」(p197)とも書いています。
「悟性の合理的なはたらき」は、「自我」(ego)による心の働きです。これを「消滅させる努力」が、坐禅や瞑想などの宗教的修行になります。その時、意識の領域が「空っぽ」になります。この状態を「無我」や「没我」といいます。
そして、「本性そのもの」が、ある日、ある時、突然「唯一の正しい答え」を出すわけで、「本性そのもの」とは、ユング心理学でいう「自己」(Self)と考えられます。
ユング心理学で考えた時、「悟りの体験」とは、「意識」(自我:ego)と「無意識」(自己:self)を流れる「心のエネルギー」の相互作用によって、引き起こされる特殊な「覚醒体験」といえます。
『禅の瞑想』の中でも、ユングは「意識」と「無意識」の「相互作用」「補償作用」についてふれています。
(※意識と無意識の)その関係は、本質的に言って、ひとつの補償的関係である。無意識の諸内容は、広い意味において補充するために、言いかえれば心の全体を意識的に方向づけるために必要な一切のものを、意識の表面にもたらすのである。無意識がさし出した、あるいは押しつけた断片を、意識的な生活の中に有意義に組み込むことができれば、そこから、個人の人格の全体によく対応した心の存在形態が生まれてくる。
それは、意識的な人格と無意識的な人格の間に起る無益な葛藤をなくした状態である。
『東洋的瞑想の心理学』(C.G .ユング 創元社)旧版p196
(※意識と無意識の)は筆者追記
ある人が、「個人の人格の全体によく対応した心の存在形態」になっていく時、その人は「個性化」(individuation)の道を歩んでいるといえます。
「個性化」(individuation)をユングは「自己実現」(self-realization)とも呼びました。「自己実現」といった時の「自己」とは、心全体を統括している「自己」(self)の働きを、意味します。
ユング派の目幸先生は、『仏教とユング心理学』(春秋社)において、「悟りの本質的な特徴」を「自我が無意識の内容を統合するための絶え間ない努力を行うことを求める一生を賭けたプロセスにあるのである」(p75)としていました。
上の文にある「意識的な人格」を「自我」(ego)とし、「無意識的な人格」を「自己」(self)とした時、「無益な葛藤のない状態」になるとは、意識と無意識の統合が進み、心全体のバランスがとれて、「その人がなりうる〝本来の自分〟」に近づいている状態といえます。
つまり、「意識的な人格と無意識的な人格の間に起る無益な葛藤をなくした状態」とは、「個性化」(individuation)が進んでいることを意味しているのです。
「その人がなりうる〝本来の自分〟」になるには、「自己」(self)が鍵を握っています。「悟り体験」に導かれていくこととは、ユング心理学の観点から考えると、「自己」(self)の働きに身を委ねていくことです。
普段の私の意識=「自我」(エゴ)において、「悟れ、悟れ」とどれだけ必死に願っても、「悟りの体験」は起きてきません。「自我」(エゴ)を手放し、「自己」(self)に任せていくことで、「悟り」は近づいてきます。
「悟り」の主導権は、「自我」(ego)ではなく、無意識の「自己」(self)にあるのです。
目幸先生は『危機の世紀とユング心理学:目幸黙僊論考集』(創元社)で、「自我」(ego)と「自己」(self)の関係を、こう説明しています。
エゴとセルフの関係は、ユングによると、ちょうど動かすものと動かされるものということです。(中略)自我はいつもセルフによって動かされているもので、セルフはいつも自我を動かしているものである。そして自我はセルフによって動かされている対象であり、セルフはいつも主体性をもっているというわけです。
『危機の世紀とユング心理学』(創元社)p73
人は、自分で考え、自分で選択・決定し、主体性をもって行動しています。
この主体性のある「自分」を考える「自分」が、上の文でいう「自我」(エゴ)です。ところが、この自我(エゴ)は、自己(セルフ)によって動かされていて、「主体は自己(セルフ)にある」と、目幸先生はいいます。
「自我」(エゴ)で考える「自分/私」とは、「意識」という狭い領域だけの「自分/私」です。
その「自分/私」は、心全体から考えたら「部分の自分/私」に過ぎません。「自分/私のかけら」を見て、「自分/私の全て」と錯覚しているのが、「自我」(エゴ)の働きであり、普段の私たちの意識です。
その「錯覚」が強くなっていくと、「意識」と「無意識」が離れていき、「相互作用」「補償作用」が働きにくくなり、心全体のバランスが崩れていきます。その結果、心身に何らかの悪影響が及びます。
心には「無意識」という、とても広くて豊かな領域があります。「無意識」を含めて初めて「自分/私の全体」といえます。
つまり、「私」という存在、その全体のバランスをとるためには、自己(セルフ)の主体性を受け入れ、「無意識」からの声にも耳を傾け、その声を「意識的な生活の中に有意義に組み込」んでいく「心の習慣」をもつことが求められます。
その「心の習慣」が、目幸先生のいう「自我が無意識の内容を統合するための絶え間ない努力」であり、この努力が継続的に行われていけば、ユングのいう「個人の人格の全体によく対応した心の存在形態」が生まれてくる確率が高まります。
宗教家たちは、「今より、よりよい人間になろう」として、宗教的な修行に励み「悟りの体験」を求めていきます。
禅では坐禅を組み、厳格なヨガ行者たちは、山にこもり瞑想を続けます。「悟りの境地」に達して「今より、よりよい人間になろう」とすることは、「個人の人格の全体によく対応した心の存在形態」を生み出していくことであり、それは「自分/私の全体」を知ろうとする体験にほかなりません。
「自分/私の全体」を知るとは、無意識を含めた自分の心、その全体を知ろうとすることです。
「無意識」は、宇宙のように広大です。その全体を人は、一生をかけても知り尽くすことはできないでしょう。しかし、宇宙に可能性を感じて人類が宇宙開発を続けるように、「無意識」という「心の宇宙」を開発し続けることによって、「心の広大さ」を知ることはできます。そのプロセスが「悟りへの道」です。
ユング心理学で考えた時、「悟りの体験」とは、自己(セルフ)が導く「心全体の開発」といえます。
現代において宇宙に実際に行ける人がひと握りの人間に限られています。それと同じように、悟りの境地に達する人は、ごくわずかの人間です。
宗教家ではない私たちが、「悟りの体験」を求めて時間を費やすことは、日常生活を困難にします。
ただ、「小さな私」(自我:エゴ)の背後に、大きな可能性をもった自己(セルフ)を知ること、つまり、「もっと大きな私」が確かに存在していると知ることは、日常生活において、私たちの「心を支える杖」になります。
人は、「普段の自分」(小さな私)で考えているより、もっと大きく豊かな可能性をもった存在です。
「悟りの体験」が確かにあると知ることは、人の可能性の豊かさを知ることであり、私たちを勇気づけてくれます。
(文:松山 淳)
【参考文献】
『東洋的瞑想の心理学』(C.G.ユング 創元社)
『「悟り体験」を読む』(大竹晋 新潮社)
『ユング 夢分析論』(C.G.ユング みすず書房)
『自我と無意識』(C.G.ユング 訳:松代 洋一ほか 第三文明社)
『危機の世紀とユング心理学』(目幸黙僊 創元社)
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