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精神(精神的無意識)の3つの働き〈フランクル心理学〉

フランクル心理学 精神(精神的無意識)の3つの働き アイキャッチ画像

 ロゴセラピー(Logotherapy)を提唱したヴィクトール・E・フランクル(Viktor Emil Frankl 1905-1997)は、「無意識」に関して独自の見解を展開した。フランクルは「身体」「心理」「精神」という3つの概念に分けて考える。深層心理学でいう「無意識」を「精神」と呼び区別した。「精神」を「精神的無意識」とも呼んだ。

 フロイトが考えた「無意識」は、衝動的で「心の病」の原因になる。それとは異なり、フランクルは「無意識」そのものが、自律的に動き人間らしい決断すると考えた。「無意識には、衝動的ではない人間らしさを志向する理性的かつ主体的な心の働きがある」とした。

 フランクルは、精神の働きとして「芸術的インスピレーション」「愛」「良心」の3点をあげる。本稿では、フランクルの考える「精神」(精神的無意識)が「具体的にどのような働きをするのか」について解説していく。

フランクルの考えた精神(精神的無意識)

 フランクルは、フロイトやユングが考えてきた「無意識」を「精神」(精神的無意識)と名付けて、フロイトの考える「無意識」とは、違う側面を強調しました。「決断する無意識」とも、フランクルはいいます。

 ここで若干わかりにいくのが、「精神」という言葉ですね。フランクルのいう「精神」は単に「心」を意味するのではなく、「自律的に動き、人間らしい決断する心の働き」というポジティブな意味合いと深い内容が含まれます。

 下の図のようにフランクルは、「身体」「心理」「無意識」(精神的無意識)の3つに分けて考えます。フランクルに言わせると、この「無意識」(精神的無意識)が、「人間らしい働き」をするから、心の病を癒すことが可能になるのです。

フランクル心理学「身体」「心理」「精神」のイメージ図

フランクルは、自身が考え出した「ロゴセラピー」のことを、こう表現しています。

「精神的なものからの心理療法」

 クライエントが癒えていくプロセスにおいて、「精神」(精神的無意識)の果たす役割が大きいわけです。「無意識」に、自己を越えた世界とつながる人間らしい「精神的もの」があると考えます

 「心理主義」とフロイト、アドラー、ユングの心理学を批判したフランクルは、精神の働きを重視しました。著書『死と愛』(みすず書房)の中にある言葉です。

『死と愛』(みすず書房)の表紙画像
『死と愛』(みすず書房)
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フランクルの言葉

 心理療法はその精神分析としての細かい技法においては心理的なものの意識化に努める。それに対してロゴテラピーは精神的なものの意識化に努力する。

『死と愛』(V・E・フランクル[著] 霜山徳爾[訳] みすず書房)p32

 「意識化」とは、心理療法の現場でなされるクライアントの「心の働き」です。「意識化」されることで、心が癒されていきます。

精神分析の「意識化」とは。

 例えば、幼い頃に両親から暴力を受けていた人がいたとします。ですが、大人になってからそのことをすっかり忘れて生きていました。その人が、原因不明の「ひどい頭痛」で精神分析家のもとを訪れます。

 暴力が実際にあったのに思い出せないのであれば、無意識に暴力を受けた記憶が隠されていると考えます。これが「トラウマ」ですね。無意識で「トラウマ」が悪さをして「ひどい頭痛」が引き起こされているのです。本人はもちろん無意識のことですから、わかりません。だから原因不明となるのです。

まっつん
まっつん

フロイト初期の精神分析では、対話や催眠によって、無意識に隠されている過去の出来事を思い出していきます。この「思い出す」ことが「意識化」です。「意識化」がうまくいけば、無意識にあったトラウマがとり除かれます。無くなれば、もう悪さをしません。

 これでひどい頭痛が癒やされたなら、やはり無意識にあった過去の記憶(トラウマ)が「原因」だったということになります。こうして「心の病」が癒されると考えたのが、フロイトの精神分析です。

精神的なものの「意識化」とは。

 フランクルは、フロイトの「心理的なものの意識化」に対して、「精神的ものの意識化」といっています。フランクルは、「精神」(精神的無意識)が、「自律的に動き、人間らしい決断をする」と考えました。 

 ロゴセラピーは、催眠ではなく主に対話によって、クライアントが「生きる意味」を発見し、精神(精神的無意識)が「人間らしい働き」「精神的なもの」を取り戻すようにサポートしていきます。この働きかけが「精神的なものの意識化」になります。その結果、クライアントの抱える苦悩や何らかの症状が癒やされていくのです。

 それでは、次に、フランクルが精神(精神的無意識)の働きとしてあげた「芸術的インスピレーシ「愛」「良心」について説明していきます。

「芸術的インスピレーション」について

 フランクルにとって精神(精神的無意識)は、創造性の源泉です。無意識の創造性を認めた点は、ユングと一緒ですね。フロイトとは異なりユングも「無意識の創造性」に着目しています。

 フランクルは、芸術家の創造性と無意識にふれて、こう書いています。

『識られざる神』(みすず書房)
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フランクルの言葉

 精神的無意識のなかにはエートス的無意識すなわち道徳的良心とともに、いわば美的な無意識すなわち芸術的良心も宿っている(中略)芸術的創造においても再創造においても、芸術家はやはりこの意味における無意識の精神性に依存している。

『識られざる神』(V・E・フランクル[著]、佐藤利勝[訳] みすず書房)p40

 画家、写真家、小説家など、様々な芸術家たちが世界にいます。世界的に評価される芸術作品にふれると、「一体、このアイディアを、どうやって考え出したのだろう?」と、深い感動をおぼえます。

まっつん
まっつん

 長編の小説を読み終えた時など、「これだけのストーリーは、どこから生まれてくるんだ?」と、不思議で仕方ありません。その才能の豊かさに、驚くばかりです。

 天才的な芸術家たちは、凡人には理解できない何かを直感でつかまえます。理屈ではなくて、「ひらめき」です。フランクルは、それを「霊感」と表現しています。この「霊感」のある場所を、フランクルは「精神的無意識」と考えていたのです。

芸術家のスランプを克服した「反省除去」

 芸術家がスランプに陥っている時は、この「霊感」がうまく働かなくなっている状態です。

「世間にもっと評価される作品を創りたい」「もっと上手にもっと美しく音を奏でたい」と、意識主体で考え過ぎてしまうと、余計にうまく「霊感」が働くなります。

 これは、「無意識」への信頼を失い、自分のことを意識し過ぎている状態です。フランクルは、実際に、芸術家たちを立ち直らせた経験をもっています。それは「反省除去」というロゴセラピーの手法によってです。

「反省除去」は、無意識を信頼し、過度の自己観察をやめるようにクライアントを諭し、芸術家たちの「霊感」を、つまり、「精神的無意識」の「人間らしい働き」を取り戻す手法です。

 「反省除去」については、フランクル心理学の「反省除去」(脱反省)とは』に書きましたので、参考になさってください。

フランクル心理学 「反省除去」(脱反省)とは アイキャッチ画像 フランクル心理学の「反省除去」(脱反省)とは

「ひらめき」と呼ばれるものは、多くの人が経験することです。ですので、フランクルのいう「芸術的インスピレーション」は、誰にも備わっている心の働きだといえます。

それでは、つづいて2番目の「愛」についてです。

「愛」について

 宗教が日常生活に織り込まれている欧米諸国に比べて、日本で「愛」を語るのは、少し抵抗感があります。愛について、歌詞や映画や小説の中でふれることはあっても、日常会話で、友達や家族と「愛とは何か」について語ることは、まず無いことです。

 とはいいつつ、日本人が「愛」を体験していることは事実です。誰かを愛し、誰かから愛されること。それが「愛」の体験です。

抱き合うカップル「愛」のイメージ画像

 親に育てられたのも、彼女、彼氏ができるのも、結婚するのも、子どもができるのも、そして子どもを育てようと懸命になるのも、そこに「愛」があるからです。「愛」の対象は「人」だけではありません。自然、仕事、趣味など、自分以外の「何か」にも向けられます。そして「愛」は、何かを行う時の原動力でもあります。

 もし「愛」がなくなったら、人間は子孫を残すことができず、仕事に取り組む高い志も失われて、社会が壊れてしまいます。そう考えると、「愛」があるから、この世界は成立していると考えることもできます。

まっつん
まっつん

「愛」は、生まれてから、親や学校の先生に教えられて、身につけたものではありませんよね。「一目惚れ(ひとめぼれ)」を経験したことのある人なら、すぐわかるでしょう。

 心が奪われる瞬間は、意識してできるものではありません。「よし、今月は絶対、ひとめぼれするぞ!」。そう、がんばったところで「ひとめぼれ」できるものではありません。気づいたらしているのが「ひとめぼれ」です。

 そこで、フランクルの考える「精神」(精神的無意識)とは、「人が生まれもって身につけているもの」と考えると理解しやすいでしょう。ンクルは、愛について、こう書いています。

心理学者フランクルの自画像
フランクルの言葉

 愛と決断との間にはそもそもなんらかの関係があるのだろうか。もちろん、ある。なぜなら、愛においてもまた、いや愛においてはなおさらなこと、人間の存在は「決断する存在」であるのだから。実際、伴侶の選択、「愛の選択」は、それが衝動的なものによって動かされたものでない限りにおいてのみ、真の選択でありうる。

『識られざる神』(V・E・フランクル[著]、佐藤利勝[訳] みすず書房)p39

フランクルは、最初の妻である「ティリー」を、ナチスの強制収容所で失います。『夜と霧』(みすず書房)を読むと、とても深くティリーを愛していたことがわかります。

フランクルが結婚を決めた瞬間

『フランクル回想録』(V・E・フランクル[著]、山田邦男[訳] 春秋社)の表紙画像
『フランクル回想録』(春秋社)
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 その「ティリー」と結婚する「決断」をした時のことを、フランクルは、自伝『フランクル回想録』(春秋社)に書いています。ある日、フランクルが自宅でランチの準備をしていた時、睡眠薬中毒の患者のために、病院から緊急で呼び出されます。そして…、

フランクルの言葉

 二時間後、私は家に戻った。せっかくの一緒の昼食は台なしだった。私は他のみんなはもう食事を済ましたものと思っていたし、実際両親はそうしていた。

 ところが、彼女は私を待っていて、帰って来た私にかけた最初の言葉は、「ああ、やっと帰って来たの。ごはん待っていたのよ」ではなく、「手術はどうだった。患者さんの具合はどう?」だったのだ。

 この瞬間、私はこの娘を妻にしようと決めた。私から見た彼女がどうこうだから、ということではなく、まさにそれが彼女そのものだったからである。

『フランクル回想録』(V・E・フランクル[著]、山田邦男[訳] 春秋社)p115

 「ティリー」は看護婦でしたので、職業柄「患者さんの具体はどう?」と、自然と言葉が口をついたのかもしれません。ですが、フランクル自身が、この言葉に「まさにそれが彼女そのものだった」とティリーの本質を直観し、瞬間的に「愛の選択」=「結婚の決断」したのは、意識的にはできないことです。

まっつん
まっつん

「彼女がどうこう」というのが、意識的に「愛の選択」を決断することです。それに対して、フランクルがここでした決断は、瞬間的でありながら深い納得感のともなったものであり、論理を超えた心の奥深く「精神的無意識」で行われたものです。

 これこそ「決断する無意識」の働きですね。真の意味での「愛の選択」は、無意識のレベルでなされているのです。

それでは、最後、「良心」について、書いていきます。

「良心」について

「良心」とは、「良いことをする心」であり、「良いことを行う際の原動力になる心」とも言えます。「何が良いことなのか悪いことなのか」を語り出すと、本1冊になるお話しですので、ここでは、「良心」「人間にとって良いことをする心」と定義しておきます。

人の「良心」のイメージ画像。ボランティアのTシャツを着る人たち。

それでは、フランクルが、「良心」について何と言っているか、耳を傾けてみましょう。

フランクルの言葉

 (※良心という現象は)「決断する存在」としての人間存在に無条件に所属している(中略)良心と呼ばれているものが無意識の深層にまで及んでいるものであり、無意識の根底に根ざしているものであることは、事実なのである。人間の現存在における大きな、真正の(実存的に真正の)いろいろな決断は、いかなる場合にも非反省的に、またそれゆえ無意識になされるものなのだ。

『識られざる神』(V・E・フランクル[著]、佐藤利勝[訳] みすず書房)p32
※(良心という現象は)は追記

 ここでポイントとなるのは、良心が「無条件に所属している」という点です。「無条件」とは、「どんな人にも、どんな時にも」ということです。

まっつん
まっつん

男であっても、女であっても、日本人であってもアメリカ人であっても、1000 年前であっても現在でも、条件にとらわれず、「どんな人にも、どんな時にも」、人は「無意識」という場所に「良心」を持っている。そうフランクルは考えたのですね。

「良心」は本当に無意識からのものか?

 ですが、本当にそういえるでしょうか?

 この世界には、たくさんの悪人がいて、良心に反する行いをしています。道徳心を忘れ罪を犯す人は、全世界で数えたら、100人、1000人の話しではありません。

 それでも、フランクルが「良心」の存在を否定しないのは、地獄のナチスの強制収容所に投獄されて、極限状態における「人間の本性」を見続けたからです。

 強制収容所は、監視官に殴られ蹴られるの日常で、食べ物もろくに与えられない非人間的な環境です。そんな地獄のような状況に置かれたら、「良心」の出る幕などなくなってしまうのではないでしょうか。生き延びるために、誰もが自分のことだけを考えて、平気で「良心」に反する罪深い行いをするのではないかと想像してしまいます。

 ですが、フランクルは見たのです。 地獄の惨劇で、人のお手本になるような「良心」を発揮する人たちを。しかも、その数は、決して少なくなかったのです。世界的ベストセラーとなった『夜と霧』で、フランクルは、こう書いています。

『夜と霧』(みすず書房)
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フランクルの言葉

 各ブロックの囚人代表の中には優れた人物がいたが、そういう人物は彼のしっかりした勇気づける存在によって、深い広汎な道徳的影響を統率下の囚人に及ぼし得る多くの機会をもっていたのである。模範的存在であるということの直接の影響は常に言葉よりも大きいのである。

『夜と霧』(V・E・フランクル[著]、霜山 徳爾[訳] みすず書房)p32
※(良心という現象は)は追記

 フランクルは、「地獄」に「天使」を見ました。その「天使」は「たまに」ではなく、「いつも、どこか」で見かけることができました。

まっつん
まっつん

 もし、「良心」が、どんな人にも、どんな時にも、無条件に備わっているものでなければ、ナチスの強制収容所で「良心」的な人を見かけることは、なかったでしょう。

「良心」が、「精神的無意識」といわれる「無意識」の根底に根ざしているからこそ、人の道に反する行いをされても、非人間的な環境に置かれても、「良心」は押し流されず、人を模範的な存在に仕立てあげた、と考えられます。

「良心」が超越的な存在からの声を聴きとる

 フランクルは、この「良心」を、「超越的な存在からの声を聞きとる心」だと考えていました。フランクル心理学では、「人間が生きる意味をのではなく、人間は、運命から問われている存在だ」と考えます。

 生きる意味を問うのではなく、問われ、その問いに答えていくが人生である。

 フランクルは、人間を「問われ、答えていく存在」として定義します。

 では、この問いを、どこで聴きとるかというと、フランクルは、それは無意識のレベルにある「良心」だと言います。「良心」は、運命や人生や何か大いなる存在からの声を聞き取り、道徳的な人間らしい決断をしているのです。


 以上、フランクルが考える精神(精神的無意識)と、その3つの代表的な働き(「芸術的インスピレーション」「愛」「良心」)についてでした。では、フランクルの名言を最後にあげて、本論を終えます。

フランクルの言葉

 われわれは、人間がみずからの内部にそれと意識することなく天使を秘めている

『識られざる神』(V・E・フランクル[著]、佐藤利勝[訳] みすず書房)p76

(文:松山 淳