『ユング自伝1』(みすず書房)に記録されている「ユングが実際にみた夢」について年代順に並べ簡単な解説を加えた。『ユング自伝1』には全部で13のユングのみた夢がある。その中の6つを前編として紹介する。
後編は『ユングの見た夢(2)ユダヤ婦人の夢〜自己(セルフ)の夢』である。
ユング心理学では夢分析を重視する。夢を知ることは無意識の状態を知る基本だ。心は意識と無意識で構成されている。無意識を知ることで、その人の「心全体」を理解できる。ユングの夢を理解することは、ユングを、そして、彼が提唱した分析心理学(ユング心理学)を理解することにつながる。
「ユングが実際にみた夢」を深く考え、ユング心理学への洞察を深めていきたい。
ユングの最初の夢(3歳か4歳頃)
ユングが記憶に残っている最初の夢で、3歳から4歳の間に見たものです。ユングにとって生涯、心を奪うことになる重要な夢です。
夢で私は牧場にいた。突然私は地面に、暗い長方形の石を並べて穴を見つけた。(中略)その時、石の階段が下に通じているのをみたのである。ためらいながらそしてこわごわ、私は下りていった。
底には丸いアーチ形の出入り口があって、緑のカーテンで閉ざされていた。(中略)何が隠されているのかを見たくて、私はカーテンを脇に押しやった。私は自分の前のうす明かりの中に長さ約10メートルの長方形の部屋があるのを見た。(中略)床は敷石でおおわれ、中央には赤いじゅうたんが入口から低い台にまで及んでいた。台の上にはすばらく見事な黄金の玉座があった。(中略)
何かがその上ん立っていて、はじめ、私は4ー5メートルの高さで、約50ー60センチメートルの太さの木の幹かと思った。(中略)それは、皮と裸の肉でできていて、てっぺんには顔も髪もないまんまるの頭に似た何かがあり、頭のてっぺんには目がひとつあって、じっと動かずにまっすぐに上を見つめていた。(中略)
私はこわくて動けなかった。その時、外から私の上に母の声がきこえた。母は「そう、よく見てごらん、あれが人喰いですよ」と叫んだ。
ユングは、生涯と通して「心の深み」に降りていき、それを研究した人でした。まるで生涯の仕事を展望しているかのようです。階段を下に降りていくことは、心の底へと、つまり「無意識」の領域に入っていくことです。
それにしても、母が人喰いですよという「巨大なファロス(男根)」、それが「ひとつ目」であることは、一体何を意味していたのでしょう。地上(意識)を神の教えで理解できる世界とした時、地下(無意識)には、それとは反対の、神の教えでは理解できない奇怪で意味不明な世界が広がっている、そのことの象徴でしょうか。
ユングはそれから50年後に、宗教上の儀式(ミサ)の中に「人肉を食う風習のモチーフ」(p32)があることを研究を通して知ります。「人喰いのファロス」には、宗教上の何らかの意味があったのです。
ユングはキリスト教の信者です。キリストを信じつつ、一方で、その教義には疑念を持ちつづけました。ひとつ目のファロスの存在を、キリスト教の教えでは理解しきれないからです。
ユングは不思議でした。なぜなら、3、4歳の子どもの知識では、「人喰いのファロス」のイメージをつくりだすことは不可能だからです。宗教の儀式に「人肉を食う風習のモチーフ」があることなど知る由もありません。
では、いったい誰がこの夢をつくり出し、誰が幼きユングに語りかけたのでしょうか。ユングは「夢の創造主」(つくり手、語り手)への疑問について述べた後に、こう書いています。
この子ども時代の夢を通じて、私は大地の秘密についての手ほどきを受けた。(中略)今では私は、それが暗やみの中にできるだけ最大限の明るみをもたらすために起こったのだというを知っている。あの時、私の知的生涯はその意識的な出発をしたのである。
『ユング自伝1』(C.Gユング みすず書房)p33
ユング心理学では、夢分析を重視します。夢は無意識がどうなっているのかを知らせてくれます。
意識の世界を「光」とすれば、無意識の世界は「闇」です。ユング心理学は、いわば無意識の「闇」に「光」(明るみ)をもたらし、人の変容や成長を支援する心理療法といえます。
そう考えると、幼い日に見た「人喰いのファロス」の夢は、ユングの生涯を展望していたとも解釈できるのです。
不安夢(7歳頃から)
ユングは、この夢を見た7歳頃に、喘息の発作を伴う仮性喉頭炎をわずらっていました。喘息の発作ですから、咳が出始めると止まらない状態だったのでしょう。その頃に見た夢が次のものです。
私は何かが時には小さく、また時には大きくなったりするような不安夢をみた。例えば、ずっと遠くに小さなボールのあるのがみえる。ボールは着実に巨大な息苦しい対象となりながら次第に近づいてくる。あるいはまた、鳥のとまっている電線がみえる。その電線は次第に太くなり、私の怖れもそれにつれてますますふくれあがっていき、ついには目をさましてしまうのだ。
ある大きさのものが、非現実的な大きさになり、息苦しい対照となって迫ってきています。ユングが日常的に無意識レベルで、強いストレスを受けていたのではないかと考えられます。
ユング自身も「私はこのことの中に心因性の要因をみる。家の雰囲気が、息のできないものになりつつあったのだ」(p38)と書いています。これは、ユングの両親の関係が、悪くなっていったことを意味しているのでしょう。
ユングは、母親のことを「私の母は私にはとてもよい母であった。彼女はゆたかな動物的あたたかさをもち、料理が上手で人づきあいがよく、陽気だった」(p78)と好意的に書いています。
これに対して、父のことは「多くの善行をなし、それがあまりにも多すぎたために、かえって普段はいらいらしていた」(p140)と、否定的に評価しています。
ユングは12歳の頃、神経症の発作がたたり学校を半年間休んでいます。両親の不仲を、子どもは敏感に感じとります。12歳といえば多感な時期です。繊細な感性をもつユングであれば、なおさらだったでしょう。夫婦の関係性が、ユングに何らかの精神的な悪影響を与えていた可能性があります。
進路に迷っていた時にみた夢
ユングは、日本でいう中高一貫校のギムナジウムに通っていました。大学は、1895年にバーゼル大学に進学します。医学の教育を受けることになります。
ユングは、ギムナジウムに通った青春時代に、哲学に熱中しました。ショーペン・ハウエルやカントから大きな影響を受けました。また宗教・歴史への興味もあります。考古学者になりたいと考えもしました。一方で、生物学に対しても関心が高まり、親に許しをもらい科学雑誌を購読するほどでした。この雑誌をユングは、むさぼるよう読みました。そこで、迷うのです。
大学は、哲学や歴史を学ぶ人文系に進むか、生物学の自然科学系に進むか。
この時、ユングは自然科学系に進むことを決心します。その決意の裏には、次の2つの夢がありました。この2つの夢を見たことで、ユングは進路を「科学系」へと決断できたのです。
私はライン川沿いに拡がっている暗い森の中にいた。私は墓地のある小さな丘へやって来、掘りはじめた。しばらくして、驚いたことには、私は先史時代の動物の骨を掘り当てたのである。これが大いに私の興味を起こさせ、その時私は自然や、私たちの住んでいる世界や、私たちのまわりのものを実感したのだった。
私は森の中にいた。森には水路が縫うように通り抜けており、そのいちばん暗い所に、私は茂った藪にかこまれた円い池のあるのをみた。半ば水に浸って、とても奇妙で不思議な生き物が横たわっていた。それは円い動物で、乳白色に輝き、無数の細胞か触手のような形をした器官から成っている直径約1メートルの巨大な放散虫だった。このすばらしい生き物が、秘密の場所の澄んだ深い水の中に、邪魔されず横たわっているのは私には言いつくせないほど不思議に思えた。それが私の中に知識に対する強い欲望を生じさせ、私はどきどきしながら目を覚ましたのだった。
自分の進路を夢で決意するところに「ユングらしさ」を感じます。2つ目の夢に「放散虫」とあります。「放散虫」は、アメーバの一種です。上のイラストが放散虫の一例です。
本来であればミリ単位以下の放散虫が、1メートルもあるところが印象的です。あたかも夢が「これを研究してみろ」と無意識からメッセージが送られてきたかのようです。このメッセージをユングは受け取りました。
ユングは「これら2つの夢が私を圧倒的に科学の方に決めさせ、あらゆる疑念を拭い去ったのである」(p130)と書いています。
しかし、科学にもいろいろな道があります。将来的には食べていかなくてはなりません。ユングはまた迷うのですが、「しようと思えば医学を勉強できるのだというインスピレーションが不意に湧いてきた」(p132)のです。
このインスピレーションに現実が追いつきます。授業料の高い医学系ですが、大学に奨学金を依頼したところ認められたのです。奨学金の追い風もあり、ユングはバーゼル大学で医学を学ぶことになるのです。
「小さなあかり」と「大きな影」の夢
大学で何を学ぶかに悩んでいた頃もそうですが、ユングは幼い頃から、自分の中に「ふたつの違う自分」がいることを自覚していました。
ユングはこの2つの人格を「No.1」と「No.2」と呼んでいました。「No.1」「No.2」について、こう書いています。
No.1の目を通じて私は、自身をはやり立つ野心と粗野な気質と、素朴な熱心さと子どもじみた失望の間を交互に行き来するあいまいな態度をもったかなり不愉快で才能のある若い男で、本質的には世捨人でありかつ反啓蒙主義者だと見ていた。
『ユング自伝1』(C.Gユング みすず書房)p133
他方、No.2はNo.1をむつかしくて、感謝されない道徳的な課題であり、また何としてもやり遂げなければならない仕事とみていた。(中略)No.2は、透徹した生命力であり、生れ、生き、死に、あらゆるものが一体となっている生命の全体的な像そのものだった。
「No.1」は、ユングにとっての自我(エゴ)であり、「無意識」に対する「意識」という表層かつ狭い領域で生きている「私」(自分)です。「No.2」は「無意識」という「暗い世界」を含んだ、より大きな領域=心全体を視野に入れた「私」(自分)といえます。
進路の選択に迷った頃に、ユングは「No.1」と「No.2」への理解を深める「私を驚かしまた勇気づけもした夢」(p135)をみます。それが次のものです。
どこか見知らぬ場所で、夜のことだった。私は強風に抗してゆっくりと苦しい前進を続けていた。深いもやがあたり一面にたちこめていた。私は手で今にも消えそうな小さなあかりのまわりをかこんでいた。すべては私がこの小さなあかりを保てるか否かにかかっていた。不意に私は、何かが背後からやって来るのを感じた。振り返ってみると、とてつもなく大きな黒い影が私を追っかけてきていた。しかし同時に私はこわいにもかかわらず、あらゆる危険を冒してもこの光だけは夜じゅう、風の中で守らねばならぬことを知っていたのである。
強風にあらがいながら「小さなあかり」をもって前進するのがNo.1です。追いかけてくる影がNo.2です。
ユング心理学の元型(アーキタイプ)に「影」(シャドー)の概念があります。これはまさに「影」(シャドー)の夢ともいえます。
No.1の役割は、「勉強、金もうけ、責任、紛糾、混乱、過失、服従、敗北」(p135)に通じていて、「現実世界を生きる私」です。強く吹く風は「時」であり、過去へとユングを押し流そうとしています。この「時の風」にあらがいながら人は未来へと歩を進めていく存在です。
ユングは夢の中で、「小さなあかり」を守らねばなりませんでした。この「小さなあかり」を自我(エゴ)とも解釈できます。現実を生きる自我=「私」を、強大な力をもつ無意識から守るのは、心の健康を維持する基本です。無意識に自我が飲み込まれると、自我が崩壊し何らかの病的な症状が出てきてしまいます。
ユングは、こうした自分の想像力を超越する夢は「神」から送られてくると考えていました。この夢を見た後に、夢のつくり手に「影」(No.2)が深く関わっていることを理解します。
「No.2が夢の創造に何らかのかかわりがあるということは私にはもはや疑いがなかったし、しかもNo.2が必要な優れた知能の持主である」(p137)ことを信じるようになったのです。
影(シャドー)とは何か。(ユング心理学)亡くなった父の夢
ユングがバーゼル大学に入学した翌年、1896年の初めにユングの父親が亡くなります。死後、6週間たってから、父親がユングの夢に現れました。
不意に父は私の前に立って、休暇からもどってきたのだと言った。父はとてもよく回復し、その時帰宅してきていたのだった。私が父の部屋に引っ越してきていたので、父が困るんじゃないかと思ったが、少しもそんな風はなかった。それも私は、父は死んだと思っていたので恥ずかしく思った。
ユングは上の夢をみた3日後にも、同じ夢を見ました。この夢は「いったい何を意味しているのだろう」(p147に)とユングは考え、死後の生命について思いを馳せる忘れることのできない体験となりました。
ユングはこの夢に特段の解釈を加えていません。亡くなった人が夢に出てきた時に、どんな感情を抱いているかはひとつのポイントです。ユングは「恥ずかしさ」を感じていました。
ここでの「亡くなった父」をユングの「父性」と考えた時に、ユングの「父性」が、現実を見誤る未成熟な「恥ずかしさ」を感じる状態であるとも解釈できます。
父親が亡くなった1896年は、ユングが21歳になる年であり、まだ学生です。父が他界したことで経済的な問題が発生し、大学に通い続ける否かの問題が発生するのです。
ユングはまだ「父」のような「稼ぎ」がありませんでした。それから、親戚の経済的援助があり、叔母の骨董品を売ることもし、ユングは大学を辞めずにすむのです。
ユングは、「私はこの窮乏時代を忘れはしないだろう。そんな時、人は何でもない物を大切にすることを学ぶのである」(p147)と書いています。1箱のたばこを1年かけて吸うほど、お金に困ったのです。
患者を見下していたことを理解した夢
ユングのもとを訪れた患者は知的な婦人でした。最初、分析はうまくいっていたのですが、しばらくすると「もはやそれ以上彼女の夢の正確な解釈を捉えられない」(p194)状態となりました。
ユングは患者に、分析がうまくいっていないことを話そうと決心します。そう決心した後に、患者と会う前の晩に、次の夢を見ます。
私は午後の陽の光を浴びながら、谷ぞいの高速道路に沿って歩いていた。右手には険しい丘があり、その頂上に城があった。そのいちばん高い塔の上で一人の婦人が手すりに腰かけていた。彼女をきちんと見るためには、私は頭をずっと後にそらさねばならなかった。首の後がかくんとなって、私は目が覚めた。
ユングは「夢は結局意識の態度に対する補償なのである」と書き、自分が患者を見下していたことを正直に話します。
「補償」とは、補うことです。現実の世界で「足りていないこと」「欠けていること」を、夢は補おうとします。夢で「見上げている」のですから、現実でユングが患者を「見下している」ことになります。「見下しているから、見上げるように」と、無意識が夢を通してメッセージを送ってきているのです。
この夢について患者と話し合うと、立ち止まっていた分析は、先へと進むことになりました。
(文:松山 淳)